2011年7月26日火曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠後期) 里帰り出産を決めて。

<北海道大学構内の蓮池>

3月末、祖母の死後しばらく、札幌に滞在して葬儀の後処理などに追われる母の側にいた。
5月、東京に戻った後も、相変わらず、原発問題はなかなか落ち着かなかった。
夫はこの後も不安定な状態が続きそうだ。生まれてくる子供のことを一番に考えよう、と言い、
5月半ばには、札幌での里帰り出産を決めた。

28週(8ヶ月)を過ぎ、いよいよ妊娠後期に入っていた。
地震のため延び延びになっていた会社の送別会が行われ、ようやく職場の仲間にも妊娠の報告ができた。友人・知人たちにも、徐々に情報が伝わり、お祝いや激励のメールが届いた。
同年代の友人は、「すごく嬉しいニュース。勇気をもらったよ!」と、42歳にして妊娠できたことを
自分のことのように喜んでくれた。
ようやく妊婦であることがオープンになり、「おめでとう!」と言ってもらえて、
私も本当に嬉しかった。
なんとなく、仕事を辞める時に心に引っかかっていた、”申し訳ない”、という気持ちが
少しずつ薄らいでもくれた。

母子ともに順調で、体調はすこぶる良かった。
5月末。近所の映画館にて、「うまれる」という出産ドキュメンタリー映画を観る。
死産という痛ましい経験談、18トリトミーという非常に重い障害を持つ赤ちゃんを生み、
育てている夫婦、不妊治療の末、子供を持つことを諦めた40代後半の女性など、
実在の夫婦が登場し、監督がすべての撮影をその本人たちの許可を得た上で進めるという手間のかかるプロセスを経て、妊娠・出産という難しい問題を、真摯に丁寧に、かつ逃げずに
対峙し、映像に仕立てた。
本人たち自らが、この作品が自分たちの問題を消化するきっかけになるかもしれない、とか、
自分たちが出演することにより、癒される、救われる人がいるかもしれない、などの使命感を持って
自らの意志で参加しているところが、素晴らしい映画に導いたのだ。

この映画を観て、私はこのタイミングでこの作品に出会えたことが本当に嬉しかった。
涙が溢れて止まらなかった。心に残る、いい映画だった。
そして、出産すること、へのいろんな意味での覚悟ができた。
何があっても、どんな事態でも、受け止めるしかない。
すべてを受け入れることが、命ということなのだなあ、と思った。

6/末、33週(9か月)過ぎ、里帰り出産のため、実家の札幌に帰省。
本当は町田の我が家で臨月、出産まで夫婦一緒に過ごしたかった。
原発は夫婦、親子を引き裂く。東電、政府を恨む。

7月末、36週(臨月)に入り、お腹の張りが出てきた。
今までになく、ずしっと重みを感じ、今までみたいにスタスタと歩けなくなる。
最低1時間のウォーキングを欠かさずに来たが、横になる時間が多くなってきた。
そして、相変わらず逆子が治らない。
ここ1ヶ月あまり、逆子治療に効く鍼灸も、逆子体操もずっと諦めずに続けてきたものの、
赤ちゃんの頭はおへその上部にしっかりとある。丸い堅い頭がしかとある。

なにか逆子のままでありたい理由があるのかね。
生まれてきたら聞いてみよう。
無事に元気で出てきてくれたらいいじゃないかと、夫も励ましてくれる。
それ以上は望むことはないよねと。
授かっただけで、もう十分に幸せなことだから。

7/27(水)これから入院。
明日の帝王切開の手術前、最後のエコーで赤ちゃんの位置を確認するらしいが、
このままいけば、明日、赤ちゃんがうまれる。
38週と2日。どんな顔をして出てくるのか。
祖母の墓前にお祈りをして、出かけよう。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠中期) 3.11大地震、そして祖母の死


<伊勢外宮にて> 

安定期とはよく言ったもの。
2/22、16週(5ヶ月)に入ると、つわりも治まり、気分すっきり。
下腹部が少しずつ膨らんできた。
体重はまだそれほど増えていないものの、胎盤が安定してきたので、
赤ちゃんは急カーブで成長する、と言う。
毎朝、お腹に手を当てて、夫と一緒に赤ちゃんに話しかけた。

休暇に入ると同時に、我が家のすぐ裏、野津田公園の緑の中での散歩が日課となり、
身体も精神状態もかなり健やかになった。
自分が心地よいと思える場所に引っ越しができたことも、
赤ちゃんを授かることができた、一つの大きな要因だと思える。
実は昨年5月、最初に妊娠したとき。都会のど真ん中からの引っ越しを決めた。
大好きな「風の谷幼稚園」に子供を通わせたいと考え、
幼稚園のある川崎市栗平付近に新居を探し、町田のはずれに絶好の中古物件に出会う。
結果、流産してしまったものの、あの時の赤ちゃんが、この田舎の自然に
導いてくれたんだ、と思う。

3月に入り、ますますお腹が膨らんできた。
まだ胎動は確認できないけれど、むくむくと赤ちゃんが成長してるのを感じる。
安定期のうちに行っておきたい場所、会っておきたい人リストを作った。
札幌の祖母、伊豆大島の叔父・叔母、伊勢神宮へのお参り・・・などなど。

まずは、近場。伊豆にいこうと思いつき、十数年来、毎夏のすもぐりに
通い続けた河津に早咲きの桜を見に、3/8、9と1泊2日の小旅行。
馴染みの干ものや「かねた水産」のおじちゃん、おばちゃんとの再会。
「元気な赤ちゃんを生んでくれよー」と、どっさりと美味しいミカンのお土産をくれた。

こんな穏やかな日々が急転したのが、3/11(金)
町田の自宅1階リビングで、1人のんびりしていた午後15時少し前、あの大地震がきた。
大きな揺れと同時に、地域一帯は停電。余震が何度も来て、ご近所の奥さま方が一斉に家から飛び出てきた。みんな一同にこんな大きな地震は生まれてと、恐がって身を寄せ合った。
震源地が宮城という情報以外、詳しい情報が分からぬまま、慌てて夫と一緒に乾電池を買いに
車でショッピングセンターに向かった。町中の信号が消え、道路は大渋滞。大混乱。
ようやくガソリンを補充し、3時間以上かけて、隣町の夫の実家に避難。ここは停電を免れていた。
深夜のテレビ報道で、予想以上の大惨事を初めて目の当たりにした。
震源地程近い、気仙沼の町の大火災の様子が放映されていた。
遠く離れていても、身が震える。恐ろしい光景だった。

その後、福島第一原発の問題が勃発。テレビ報道、ネット上は放射能汚染関連の、真偽の程が全くわからない情報に振り回され始めた。そして余震が来る度にベット脇に備えた運動靴を履き、すぐさま避難できるように身構える。非常用の水・食料を詰めたリュックサックを玄関前に常備した。

そして、数日後。水素爆発が起きたすぐ後。夫の従姉妹の夕美子さんから電話が入る。
「あの水素爆発で、これから大量の放射能が東京にも降りかかるわよ。私たちは長崎に逃げることにしたの。あなたたちはどうするの?暢子さんは妊婦なんだから、絶対に東京にいちゃだめ。実家の札幌に帰るか、九州あたりに逃げなさい」

夫は夕美子さんの断固とした口調に驚きつつも、電話を切るとすぐさま
「どうしようか。僕たちも逃げようか。どうしたい?」と私に問うてきた。
原発事故後、ある程度の恐ろしさを感じていたが、水素爆発後は自分でも驚くほどに動揺した。また、その夕美子さんからの電話が、その不安な気持ちに拍車をかけてくれた。
妊娠していなければ、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。どちらかというと、被災地にいち早く乗り込み、救援活動をしたい!などと勇ましい気持ちがわき上がるたちだ。
でも、お腹には小さな赤ちゃんがいる。余震や停電の続く状況でも不安なのに、さらに恐ろしい放射能の雨が降り注ぐことになるなんて・・・。テレビ報道がいくら安全と言おうと、全く信用ならなかった。

守るべきものができた私は、直感的に「ここには居たくない。なにか気持が悪い」と感じた。
そして、夫に、「すぐに逃げたい。東京には居たくない」と言った。
2時間後には、車で町田の家を出ていた。とにかく、関東を離れ、西へ西へと、車を走らせた。

3/15から約10日間。三重四日市から、伊勢神宮、熊野神社、高野山と、西国巡礼の旅のごとく、
大地震と原発事故が鎮まるのを祈りつつ、小さな命を守るための旅を続けた。
結果、この間に一時的に関東から離れたことで、かなり平静な心に戻れた。
そこまでしなくても、、、という周囲の声も無視して、飛び出てきて本当に良かったと思った。
夫が、妊婦が精神的に不安定になるのが一番良くない、とすぐさま判断してくれたのも嬉しかった。
そして、今になって、この時期、かなりの放射線量が関東全域にも降り注いでいたことが分かる。
自分たちは自衛できた。英断だった、と心から思う。
自分たちで自らの身を守るしかない。
信じるすべがない。
この信じがたい程、愚かな状況は今現在もまだ続いているが・・・。

そして、今度は西国巡礼の旅の後、まもなくのある朝。実家の母が慌てた声で電話をしてきた。
「ムッターの心臓が止まってしまった」と。
祖母は40歳過ぎ、若くして孫を持ったことから、ドイツ語で母親の意の”ムッター”と呼ばれていた。
3/27(日)朝。祖母はついに入院先の病院で息をひきとった。

私の結婚を誰よりも心配し、そして40歳で結婚できたことを誰よりも喜んでくれた祖母。
2009年2月末。夫のイチロウと一緒に札幌に結婚の挨拶に帰ったとき、
認知症でまだらぼけの頭だった祖母は、その時だけは、意識がはっきり戻り、
私とイチロウの顔をじーっと眺め、嬉しそうに言ってくれた。
「あんたたちは、似てるね。この人はいい顔してるね。
ナコは良い人に巡り会ったね。運が良かったね」と。

そして、「仲良くしなさいよ。優しくするんだよ」と言い、
「本当によかった。ああ嬉しい、嬉しい」と、涙を流して喜んでくれた。

最愛の第二の母のような存在の祖母に、ようやく結婚の報告ができた。
私が結婚するまでは、死んでも死にきれない!と言い続けてきた祖母。
私のお腹に赤ちゃんが宿っていることも、半ば理解してくれていたと思う。
ようやく、戦争で死に別れた祖父とも天国で再会できているだろう、と、
私も、母も叔父も、親族みんなで、祖母の91歳の大往生を暖かい気持ちで見送った。

祖母の命を引き継ぐ、新しい命が私のお腹にいる赤ちゃんなのかもしれない。
祖母の亡骸が骨になってしまった後は、不思議と、すぐ側に、いつも傍らに
祖母がいてくれている気がして、心強くなった。
「ムッターが赤ちゃんを守ってくれる」

祖母の強い魂が、3/11大地震後から長く不安に駆られていた私を支えてくれる気がした。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠前期) つわりの中、退職準備


<自宅の庭の雪景色>
2011年年明け。1月7日妊婦検診。9週3日、胎児は22.1mm。
「順調ですね」と町田市民病院の女医さん。
流産経験のある人はみんなそうだろう。とにかく、初期流産が怖い。
心拍もあり、経過は順調と知り、ふーっと息を吐く。

渋谷の職場には1時間半近くかけて通っていた。
都会暮らしに疲れ、昨年秋、緑の多い町田の田舎に引っ越した。
ありがたいことに、妊娠前期にありがちな吐き気などの重いつわりはあまり無かったが、
朝の通勤ラッシュはつらかった。そして、たまに強烈な眠気に襲われる。
2月初旬をめどに、取引先への挨拶など、仕事の引き継ぎ業務に追われた。
退職することで、ただでさえ、上司、仲間、部下には迷惑をかけている。
これ以上の余計な心配材料は与えたくなかった。
妊娠したことは一切報告せずに乗り切りたかった。

表参道の鍼灸院には通い続けた。徐先生曰く、
「今回は大丈夫ですよ。妊娠脈もしっかり出ている。
12週を過ぎれば安心ですね」と言ってくれた。

妊娠脈・・・。妊娠した後、手首の内側にはっきりと現れる強い脈のこと。
とにかく不安だったので、気がつくとこの妊娠脈を確かめる、習慣がついた。
妊娠するまでに、徹底的に食事や生活改善、日々のウォーキングを続けてきたおかげか、
多少のつわり・眠気はこらえつつ、多忙な仕事の引き継ぎをなんとかこなし、
1月末の12週目を無事に迎えた。

これまでの20年間、様々な部門で社内外の多くの方々との関わりの中、忘れがたい案件を
たくさん手がけてきた。退職の挨拶、後任の紹介の行脚をしつつ、とにかく一生懸命、
ひたむきに取り組んできた日々が愛おしく、思い出され、そして、
多くの失敗、失態の中、仕事人として成長させもらったことを感謝した。

近しい仲間からは、
「仕事人間だった人がいきなり辞めちゃったら、寂しくなるんじゃない?」なんて言われたけど、
今まで馬車馬のように全力投球したきたからこそ、ちっとも悔いは無い。
思った以上に晴れやかな心持ちで、すべてを後進に譲ることができた。

流産の危険性のある妊娠前期は15週まで。
あと1ヶ月弱をなんとか乗り切りたい・・・。
毎日、祈るような気持ちで、職場と家の長距離を往復した。

2月始め。仕事の引き継ぎが完了。
3月末退職までは、溜まりに溜まった有給休暇を消化させてもらうことにした。
明日から休暇に入るという前日夕刻。
職場の仲間達が、大きな大きな花束で見送ってくれた。
「飯田さん。長い間、本当にお疲れ様でした。改めて3月末に送別会はやりますが、
ひとまず、一区切り、ということで・・・。」
みんなか暖かい、労いの拍手をもらう。

「期の途中でこのようなことになり、申し訳なく思っています。
でも、みんな、この間大きく成長し、引き継ぎをしながら頼もしく感じてきました。
この後のことは何も心配していません。
20年間、全力で仕事をしてきましたので、悔いはありません。
そしてずっと、これからも私はぴあを応援し続けます。
ありがとうございました。」

爽やかな気持ちでいっぱい。
笑顔で会社を出た。

”おまえは仕事(ぴあ)と恋愛している”、とまで言われてきた。
どれだけ会社、仕事、仲間との時間を費やしてきたことか。
仕事のトラブルに、会社の経営危機に、何度眠れない夜を過ごしたことか。

辞める話が社内に広まった後、”ぴあの象徴”、みたいな飯田さんが辞めるのは
とてもショックだと言われて、別の部門の女性の後輩と語り合った時、
仕事と家庭を両立する、という女性のキャリアのモデルを作りきれなかったことが
少しだけ心残りになった。ぽっかり穴を空けてしまい、ごめんね、という気持になった。
私は女性幹部の筆頭でもあり、唯一の管理職でもあったので、
20代、30代の女性の後輩達には、表に現れないけど、けっこうな失念を与えてしまった。

でも、いろんなキャリアのあり方があって良いんだよ、と伝えておきたかった。
「私は不器用なたち。仕事人生突っ走り系なんだよね。
40歳までがむしゃらに働いた分、また健康を取り戻したら、
次の人生のシーズン2のあり方を考えようと思う」

11月末からの仕事の引き継ぎ、20年間の仕事の集大成がようやく終わった。
お腹にいる小さな小さな胎児は、おとなしく、私を見守ってくれた。

2月末、待ちに待った16週(5ヶ月)、安定期に入る。

2011年7月25日月曜日

40歳からの子作り(その5)・・・42歳3ヶ月で自然妊娠。

<自宅の裏山>
2010年12月24日クリスマスイブ。
四谷の産婦人科。エコーで小さな小さな胎児の原形が見えた。6週過ぎ。
心拍も確認でき、「今度は大丈夫そうですね」とお医者さん。

こんなに早く結果が出るとは予想もしなかった。
赤ちゃんは私の決意を待っていてくれたんだな、と思う。
仕事を辞めなかったら来てくれなかっただろう。
妊娠にはストレスが大敵だとよく言う。
不妊治療自体がストレスの原因になる場合もあり、治療を辞めたら
ぽこっと自然に授かったという話もよく聞く。

5月に流産した時、どうやって仕事と両立していこうかと一瞬悩んだ。
幼少時代から、女性も当然のように仕事を持ち、そして家庭も育児もこなすイメージだけを
追いかけてきた。でも、42歳という年齢、事業の責任者という立場から、
その理想を追求するのは無理だ、身体が訴えた。
仕事に全力投球できなければ、組織に迷惑がかかる。
自分にしか出来ない、などというおこがましい考えは毛頭なかったが、どこかで
仕事のキャリアと家庭の幸福の両立、という理想に自分自身が縛られていたのかも。
知らず知らず、いつも緊張しながら、気が休まらない仕事優先の日々を過ごしきた。
がむしゃらに頑張ってきた。

”一回、肩の力を抜く”、という道に導いてくれたのは、子供を授かりたいという母性であり、
女性本来の本能だった。仕事脳にまみれていた20年間から解き放たれて、
一気に身体の中に激変が起き、空から天使がふわっと舞い降りてきた感じ。

赤ちゃんの心拍を確認できた瞬間、
「ああ、神様から授かった」・・・と。
心からそう感じた。

40歳で結婚。子供を授かりたい一心で、不妊治療の専門病院の門をたたいたり、
様々な専門図書を読みあさったり、同じ悩みを持つアラフォー女子の友達とも
たくさん情報交換もしてきたし、ネットで「高齢 妊娠」を検索したことは数知れず。
最初の千駄ヶ谷の医者からの「宝くじに当たるようなもの」というネガティブな診断から始まり、
体外受精でも40歳以上の妊娠確率はどんどん下がることや、高齢者は流産する率も高いこと、
そして、実際に流産してしまったこと。

でも、私が最後まで支えにしていたのは、実は、自分に都合のいい、楽天的なコメントや経験談の数々だった。

神奈川の池川クリニックの院長が「今年中に赤ちゃん来ますよ」とダウジングで予想くれたこと。
表参道の鍼灸の院長がお腹を触りながら「あなたならすぐに授かりますよ」と言われたこと。
体外受精を何度もトライしてだめだった47歳女性が諦めかけた時に自然妊娠したという逸話。
45歳で自然妊娠にこぎつけたジャガー横田の経験談なども、万に一つの希望として、
自分にも訪れてくれるだろう、という明るい光をくれた。

会社の元同僚で既に3人の子持ちのKさんは、流産後にも、こういって励ましてくれた。
「大丈夫。きっとまた授かるよ。
流産したあと半年後、1年後に赤ちゃんを授かった友人が何人もいるよ」

帯広の友人のJさんは、「天使再来セット」というかわいいメッセージカードと
十勝の小豆を送ってくれた。小豆は女性ホルモンにとてもいいんだよと。

弟夫婦は、絶えずポジティブなアドバイスをくれた。特に、義妹は、
「お姉さんにはつらい決断だと思いますが、仕事量を減らすことが最終的な壁ですねと」と
的確な指南をしてくれた。

妊娠・出産、という超プライベートなことではあったが、家族や近しい友人と悩みを分かちあえたことは最後まで本当に心の支えになった。
もちろん、夫は常に絶対的に寄り添ってくれた。
仮に子供を授からなくても、私たち2人の楽しい人生がある、という気持ちでいられた。

そして、装丁がぼろぼろになるほど、何度も読み返した私の心のバイブルは
「赤ちゃんがほしい!」(沢田喜彰先生著/永岡書店)
この先生は、「不妊の9割は克服可能」と説き、「今の不妊のほとんどは、健康管理の悪さと不摂生な日常生活が背景にある”機能性不妊”」。生活習慣・全身の健康と不妊の関係を強く指摘している。そして、安易に最先端の治療を試みるまでに、また「自分立ちにはムリ」と諦めてしまう前に
足下の自分の健康のベースを取り戻す、という、基本的な不妊解決のアドバイスが書かれている。

私はこの沢田先生の考えを徹底的に信頼した。
残念なことに、この本に感動し、受診しようと電話をかけた時、すでに沢田先生は鬼籍の人だった。
対応してくれた目黒の沢田クリニックのスタッフから「1ヶ月前に先生は亡くなりました。いまクリニックは診察しておりません。でも、先生の本を実践して、ぜひがんばってください」と穏やかな口調で言ってくれた。

このバイブルには、何年もの高度不妊治療では結果がでず、最後にこの沢田クリニックを訪れ、
毎日の食事や生活習慣の改善、徹底的に歩く指導に従った結果、45歳で自然妊娠した人の逸話もあった。わたしはこうした経験談をずっと心の傍らに、希望を持ってきた。

そして、妊娠するプロセスは奇跡の集積。
最終的には、科学を超えて、人智を超えた世界だとも思っていた。
赤ちゃんはお母さんを選んでやってくるという、池川クリニックの先生の考え方にも共感した。
妊娠する=自分の努力だけで成果を求められる、達成させる、というたぐいの”仕事的なこと”ではなく、まさに”授かりもの”なんだと感じていた。

42歳過ぎ、再び赤ちゃんを授かることができて、心から、この恵みに感謝した。
・・・と同時に、健康に産み、育ててくれた両親に感謝した。
そのベースがなければ、このような恵みは訪れなかっただろう。

同じく40代で妊娠を望んでいる友人たちにも、一筋の光になればと思った。
また、20代、30代の若い世代の後輩たちには、”生む性”として、自分の身体の健康管理の大切さを伝えたいと思った。子供が欲しいと願う人には、”妊娠に適した年齢”を今から意識して欲しいと、切々と語った。

20年、身体を酷使し、仕事が終わらないうちは深夜何時でも帰らない、帰らせない!といったごりごりの指揮官体質だったがむしゃら私が、今さらながら、の、考え方の大転換。
”生む性”である女性は、身体を壊すような仕事の仕方は絶対にしてはいけない。
そういう会社組織や社会の体質を変えないといけない。なにより、自分で自分の大事な身体を
しっかり守る”自衛本能”を持たなければいけない。

がつがつ仕事する姿しか見せてこなかったので、急にそんな真逆のことを言い出す私に首を傾げる仲間、後輩もいた。

42歳過ぎ、遅ればせながら、私は自分自身の”母性”にようやく、ようやく目覚めた。

2011年7月24日日曜日

40歳からの子作り(その4)・・・流産後の不調との闘い、そして決意

自然に妊娠できる力はあるとわかったことは唯一の救いだったものの、
流産の後は、ぐずぐずと、体調不良が続いた。

とにかくつらかったのはひどい頭痛。
医者は、妊娠中に出るホルモンの影響なので、しばらくすると治るというが、
1ヶ月経っても治らなかった。
今までこんな頭痛に悩まされた経験がなく、もしや脳に腫瘍でも出来たのでは?と
脳外科でMRIまで撮影してもらった、が、異常なし。
ホルモンバランスが崩れているだけ、とのことだった。
仕事にならず、休むこともしばしばあり、仕事仲間にも迷惑をかけていた。

その頃、職場では新しいサービス開発準備が架橋。
リーダーの私自身が先頭にたって動き回り、パートナー企業との折衝や
クライアント開拓に当たらなければならなかった。
流産のため、2週間以上も動けなかった分を取り戻さなければ・・・との焦りもあり、
時間にも、精神的にも余裕がなかった。
職場のメンバーには、なるべく事情を包み隠さず話をし、理解を求めながら組織運営をしていた。
でも、今までのようにパワフルに仕事に対峙できない。

ただ、ここで自分が頑張らなければ。
この新しいサービスが日の目を見るまでは、と、少ない気力を振り絞って、
毎朝、ベッドから這い出る思いで、会社に向かっていた。
早く立ちなおりたいという気持が、ますます身体に無理を強いていった。

2010年夏は例年以上の猛暑だった。
連日続く外回りの営業。
あるとき、明らかに脱水症状になり、主治医に駆け込む。
咳がとまらず、アレルギー性の気管支炎も再発していた。
その後、ほぼ毎日、点滴を受けながら仕事を続けた。
ついでに、この頃から、持病の腰痛も悪化してきた。

家に帰ると、何も手につかない。
夫にだけは、「もう仕事を休みたい」と弱音を吐いていた。

そんな体調不良との闘いが続いた夏の終わり。
表参道の鍼灸治療院の徐先生から言われた一言が、私を大きく動かした。
「うーん。せっかく良い状態になっていたのに。
こんなに疲労が貯まっている身体には、赤ちゃんは来てくれませんよ」

明らかに仕事過多だった。
無理を強いてきたこの数ヶ月を、徐先生に厳しく、ぴしゃりと指摘された。
「どちらが大事なのかを考えないとね。宮本さんにはこの2年ぐらいが勝負ですよ」

言い換えれば、もう2年ぐらいしかない、ということだろう。
相変わらずの欲張り精神が治っていない。
仕事も、赤ちゃんも、と、両方の夢を追っている。

鍼灸治療が終わり、着替えをしながら、先生の厳しい指摘を反芻し、
今本当に自分にとって優先すべきことは何か?を改めて突きつけた。

仕事も、赤ちゃんも、と両方に全力投球することは、今の私の年齢・立場ではもう限界。
これまでのように、24時間、仕事脳。全力投球の生活はもうできない。
メンバーにも迷惑をかける。
赤ちゃんを授かる夢も中途半端になる。

「思い切って、仕事を辞めようか。」

そして、困ったときの駆け込み寺。
いつも的確に指南をくれる友人の美佐子さんに急遽会いにいき、
最後の背中を押してもらった。
「すぐに辞めるべき。明日にでも、会社に辞表を出すべきだよ。」ときっぱり。
私が最終決断をする道をつくってくれた。

9月末。約20年勤務をしてきた、ぴあ(会社)を辞める、決意をした。
身体はもちろん、精神的にも今までになく追い詰められていた。

10月始め、上司と面談。
流産後、体調が非常に悪く、仕事に責任をもって全力投球ができない。
今の事業責任者の立場を全うできないので、会社を辞めたい。
話をしながら、涙が出てくるのが抑えられず、我ながら
「ああ、相当にメンタルにもきてるなあ」などと感じながら、切々と陳情を続けた。

流産後も、人前で泣くことはなかった。夫の前ですら、涙を流さなかった。
泣かないことで、前向きに乗り切ろうと思ってきたが、心に貯まっていた哀しみの澱は
溜まりに溜まっていたようだ。ついに溢れ出てきてしまった。

この涙がなければ、上司はうんとは言わなかったかもしれない。
こいつが泣くなんて、これはただ事じゃないな、と、ようやく分かってくれたようだ。

11月始め、社長との面会を経て、正式に退職が認められた。
今の事業を引き継いでくれる仲間もようやく見つかった。
11月15日辞令が出て、職場の仲間にも報告する運びになる。
その時の、みんなの真剣な、そして不安の入り交じった深刻な表情は一生忘れられない。
万感の思いを込めて、説明をし終えた。もう力尽きた、抜け殻のような身体だった。

この後、自分の仕事人生の総決算。
ゆっくりと、3ヶ月ぐらいかけて、仕事の引き継ぎをすることになる。
そして、仕事を辞める決意をしたあと、身体には大きな変化が訪れた。

いつもの表参道の鍼灸にて。11月半ば。
「あら。今日は力が抜けていい身体になっていますね。また妊娠できそうな感じですよ」
この徐先生の触診の力は驚くべきだ。
こうして、少しの変化も見逃さず、迷わず明言するところが、またすごいのだ。

私も驚いた。
「え?そうですか。先生。実は、仕事を辞めることにしたんです」

先生は、満面に笑みをたたえ
「そうですか!それは良かった。よく決意しましたね。
それで、こんなに身体が柔らかくなってるんだ」

身体はなんと正直なのだ。
これまでの頭痛、腰痛、気管支炎の症状が一気にどこかに飛んだ。
なんだったの?

「身体は脳が支配しているんですよ」と先生。

体調が悪い中、一生懸命に仕事と格闘し、ますます体調が悪化し、精神的にも追い詰められ
身体を正常に司るべき自律神経、ホルモンが機能不全を起こしていたのだろう。

大きな荷を下ろすことを決め、一気に全身に血が巡りだしたみたいだ。
驚くべき急変。
身体は待っていた。私の決意を待っていたんだなと強く感じた。

そして、その後、1ヶ月後の12月末に再び妊娠が判明。
本当に思いがけず、こんなに早く、天使が再来してくれた。
赤ちゃんも私の決意を待っていたのだ。

2011年7月21日木曜日

40歳からの子作り(その3)・・・妊娠力ってなんだ?

妊娠したいと望んでいるアラフォー女子の悩みは深い。
婚活もそうだけど、子作りに関しても、思い切って友達や医者に悩みを打ち明けることで
思いがけない情報や、いろんな経験値に出会える。
なかなか表立って話せないことが多いナイーブなテーマであるがゆえに・・・だ。

つい最近、表紙に「妊活」と大きく書かれた女性誌を書店で見つけた。
妊娠活動・・・?
ちょと無理のある造語だけど、でも、そうやって改めて書かれると、婚活と同じように
自分の考えや価値観を見つめなおし、身体の状態を把握し、ゴールに向けてやるべきことに
時間を意識しながら、しっかり取り組んでいかないと達成できない、ある意味での活動だと思った。

私が、「ここの鍼灸治療の先生にすがろう!」と思えた時、自分は子作りに関して、
どういう姿勢で望みたいのか?がはっきりしてきた。
そして、それは二人でとことん話し合い、相談し合ってきた、夫婦としての結論でもあった。

すでに41歳になっており、時間的にも体力的にも楽観的な状態ではない。
でも、できれば授かりたい。
自力で努力できる範囲のことは、全部やってみよう。
ただし、多額の治療費のかかる高度不妊治療には手を出さない。
もし授からなかったとしても、そのことを夫婦で受け止めよう、と。

婚活にも子作りにも、その人の考え方、価値観が大きく影響する。
良い悪い、正しい間違っている、ではない。
なにを選択するかなのだ。
その選択は自己責任であり、
最終的にはすべて自分で受け止めるしかない。

2009年秋に表参道の鍼灸治療院に通い始めてから6ヶ月あまりたち、2010年3月頃。
基礎体温のリズムが安定的になり、低温期と高温期の境目が
はっきり出るようになってきた。
週1回の治療に加え、毎日、自宅でも徐先生の指導のもと、お灸を据え、
これまでの食事療法、生活改善、毎日のウォーキングなども地道に続けた。

「すごく良くなってきましたねえ。脈の状態がとてもいい。お腹の冷えも
とれてきました。そろそろ天使がくるような気がしますよー。」とのこと。
この鍼灸治療院では、なんと通院して半年の間に妊娠する人が約6割。
1年以内だと、約8割の人に妊娠の朗報が出ているという。

「私は41歳ですけど、他の方はどうですか?」と聞くと、
「うちは、多くの患者さんが35歳以上で、40歳以上の方も半分ぐらいいますよ」という。
そして、その多くが東京都内で忙しく仕事をする、いわゆるキャリアウーマン。
徐先生からが患者さんに指導する中で、なかなか改善してくれないことの一つが、
”睡眠不足”、だという。

「みんな、子供が欲しいと思って高い治療費を払い、ここに来てくれるんだけど、
毎晩遅くまでハードに仕事をして、疲れ切った身体の人が多いんですよ。
そんな夜遅くまで起きてる身体は、血流も悪いし、身体中にコリが残る。
妊娠力を高めたいならば、早く寝ることがとても大事なんですけどね」

ハードワークのアラフォー女子は、忙しいことを理由に、女性ホルモンに大事な
睡眠をないがしろにしている。東京の女性は働きすぎです、という。

私も、この徐先生に指摘された、働き過ぎのアラフォー女子の典型だった。
深夜まで働いている、または外食していることが当たり前。
家に着いて、眠りに就くのは、だいたい1時過ぎ。

「せめて、12時には寝て欲しい」と徐院長。
女性ホルモンの機能活性は、10時~2時に行われるらしく、その時間に眠っていることが
とても大事だという。これは、一般的な女性医学の本などにもよく書かれており、周知の事実だ。
頭ではよく理解している。あとは実行するだけ。

2008年の経営危機以後、私はぴあ子会社の役員として、新しい事業の開発・推進のリーダーとして10数人のメンバーの組織を預かっていたが、結婚後は、子作りのためにも、また夫婦の大切な時間を作るためにも、これまでのように平日毎日の深夜残業、外食という生活を改め、極力、夕方までに仕事を終わらせ、健全な時間に帰宅するよう、大きく時間の使い方を変えてきた。

健全な時間、とは、だいたい8時~9時ぐらい。
毎日とはいかないまでも、週に半分は自宅で食事をする。・・・働きばちだった自分としては、大幅な仕事時間の改善だった。そして、徐院長の助言をうけ、睡眠改善も少しずつ意識して行った。

2010年5月連休の初めのこと。
徐院長の予言から1ヶ月あまり。
生理が遅れ、妊娠検査薬の結果が「+」(プラス)と出た。

「なんと、本当に!?」
こんなに早く結果がでるなんて。
予言通り、空から天使が来てくれた!
徐院長の見立てはすごい。
夫婦2人で、大喜びだった。
お互いの両親にも報告。
出産までの仕事のやりくりなどを考え始めたりしていた。

しかし、喜びもつかの間、連休明け。
仕事に向かう途中で調子が悪くなる。
・・・そして出血。
血相を変え、慌てて産婦人科に駆け込んだ。

「切迫流産ですね。なんとかぎりぎりまだ受精卵はあるけど・・・。
うーん。とにかく安静にして、様子を見ましょう」

医者からは仕事も家事も一切休み、自宅安静するように指示された。
ホルモン注射や投薬の効果で出血は多少収まりつつあったが、下腹部がちくちく痛み、まともに歩けない。仕事どころではない。やむなく、上司や一部の部下には事情を話し、大事な仕事の約束などもすべて任せ、自宅で静養。

日に何度か仕事の相談で会社からの電話やメールが来る。
仲間に申し訳ないと思う気持ちと、お腹の赤ちゃんがどうなってしまうのか不安で不安でたまらない気持の両方が押し寄せ、普段はめげないタフな私も、気がふさんでいった。

そして残念ながら、2週間安静の甲斐無く、5月半ば、9週目で流産と診断された。
「うーん。赤ちゃん育ってないですね。これ以上は難しいと思います」

もう少し様子を見ると変化があるのでは?と、涙をこらえながら先生に万が一の
可能性をすがりたかったが、でも、手元にあるエコーを見たところ、
素人目にも、これは駄目なんだろう、ということが、はっきりと、分かってしまった。

近くの喫茶店で診察結果を待っていた夫。
「だめだった」・・・と言うと、同じように、大きく顔を曇らせた。
天使はまた空に帰って行っちゃった。喜びから一転。身体中が凍ってしまいそうだった。

しかし、夫は励ましてくれた。
「でも、一歩前進したよね。自然に妊娠できると確認できたんだからね」
また、赤ちゃんは来てくれると言ってくれた。
この半年の地道な努力・治療のおかげで、妊娠力がアップしたことは確かだ。
次に希望をつなげよう・・・。
そして5月末の手術の後、供養と自分自身の心を鎮めるために
秩父の今宮神社にお参りにいった。

初期流産は実はかなりの確率で起きることだ。
40歳以上の高齢であれば、30%~40%近い確率とも言うらしい。

そして、流産したことを打ちあけた時、
「わたしも経験してるんだよ」
「知人でも流産後に、また授かった人がいるよ」と多くの友人に励まされた。

実の母親なぞは、
「私は2回も流産してるから、大丈夫よ」と明るかった。
娘の私も知らなかった。
こうして、表に出ないけれど、流産という悲しい事象が多くあること、
確率的に必ず発生してしまうこと、を知り、妊娠・出産に至るまでの
自然の摂理、淘汰を、女性は受け止め続けてきたのだなと、しみじみ思った。

天使の再来を願いつつ、仕事に復帰を始めた。

2011年7月20日水曜日

40歳からの子作り(その2)・・・東洋医学にすがる

神奈川の自然分娩派の池川クリニックで勇気をもらったあと、
妊娠にこぎ着けた同じ40代の友人から、恵比寿のファテリテイクリニックを紹介してもらう。
「実績もあるし、感じのいい先生だったよ」との言葉を聞き、新たな気持ちで診察に向かった。

ここの院長は、頭ごなしにすぐに体外受精!と詰め寄ることなく、本人の納得性を大事にするという方針を持ち、40歳という年齢ではあるが可能性はあるので、まずは夫婦共に身体の状態を調べるため、基本的な検査をしましょう、とのこと。

1ヶ月半ほどかけて、通常の不妊治療の初期段階で行う諸々の検査(血液検査、卵管の検査、フーナーテスト、精子の検査)などを行い、特に問題はない、との結果が出た。
最初はタイミング療法からと言われ、排卵時期を確認しながら自然分娩を期待していたものの、2,3ヶ月たったが、そう簡単には妊娠しなかった。そのうち、念のため、体外受精をする場合の説明会に参加してみては?とのアドバイスと、体外受精のプロセス、妊娠の確率、費用などの分厚い資料をくれた。

その後、参加申し込みをしたものの、体外受精の分厚い資料を一通り読み、
どうも感覚的に受け付けないなあ、と感じてしまい、結果として説明会には行かなかった。
たくさんのホルモン剤を投与し、採卵し・・・、というプロセスが怖かった。
40代過ぎて、欲張りなのは100も承知だが、自然に授かりたい、という気持ちがむくむく出てきた。

そんな折り、ファティリティクリニックの受付に、ある鍼灸治療院のパンフレットをふと目にした。
”不妊治療に実績・・・アキュラ鍼灸院”
身体の持つ本来の力を引き出す鍼灸治療。
私も過去に腰痛治療で何度もお世話になった。これはいいかもしれない・・・。

「ここに行こう!」
ぱっとパンフレットをとり、すぐに電話予約。
表参道のビルの最上階にある、小さなこじんまりとした鍼灸院にすがるような思いで駆け込んだ。
初めての診察。

中国籍の徐院長。同じ年くらいの若い爽やかな先生で、にこやかに診察してくれた。
これまでの検査データなどにもすべて目を通したあと、私のお腹のあたりをじっくり触った。
そして、一言。
「宮本さんは、やわらかい、いいお腹をしています。これならすぐに妊娠できますよ」

いきなり、目の前に青空が広がった気分。
私は、思わず寝たままで、院長を見据えて、詰問した。
「え??どこが・・・・? どういう風に大丈夫なんですか???」

なんていったって、千駄ヶ谷では、”宝くじに当たる確率”とまで言われたのだ。
それが、この鍼灸の先生の触診で、「すぐに妊娠できそうだ」との真逆の診断結果になったのだ。
その後、身体の状態を丁寧に診ながら、お腹や足を触診したり、脈を診たり、舌を診たりしながら、
じっくりと説明をしてくれた。
とにかく、私は年齢の割には良い状態。エネルギーがある。体力がある。
元々、妊娠力は備わっている身体だから、冷えをとり、腰痛、コリをとり、適度に運動を続け、
鍼灸治療をしていけば、きっと授かるでしょう、と言う。

自信を持って、笑顔で、そう言ってくれた。
「西洋医学では40歳になると自然妊娠は無理とすぐ言いますが、東洋医学では、健康な女性は生理があるうちは妊娠できる、という考えなんですよ」と。

私の感性にぴたっときた。
この徐先生に託そう。
ここの鍼灸治療院にすがろう。

いきなり、身体中に元気がわいてきた。
大丈夫ですよ、と言われたことだけで、気持ちが思いっきり前向きになれた。

今振り返っても、この気持ちが前向きになれたことが、実は一番の治療だったのだ。
妊娠には脳が大きく関与している。
リラックス、前向きな心がないと、女性は妊娠しずらい。
ナイーブな身体なのだ。

2009年の秋、表参道の鍼灸治療院で、高齢妊娠に向けた、大事な第一歩を踏み出せた。

2011年7月19日火曜日

40歳からの子作り(その1)・・・高名な不妊治療医からの衝撃の言葉

スピード婚を振り返ると、一つ大きな勝因が思い当たる。
付き合い初めてすぐのこと。私ははっきりと宣言した。
「私、もう遊んでいられる年じゃないので、結婚する前提じゃないと付き合わない」
「それと、子供が欲しいので、なるべく早く結婚したいと思ってる」

40歳過ぎの晩婚だから、こんな潔く明言できたのかもしれない。
3ヶ月ぐらいお付き合いして、徐々にお互いのことを理解して・・・なーんていう
悠長なことは言っていられないのだ。
でも、結果は、この”はっきり”が正解だったのだ。

彼もすぐさま、「じゃあ、結婚しよう」と言ってくれたのだ。

そんなわけで、アラフォー女子で未婚の友人に言う。
「結婚するつもり、子供が欲しい、ということをはっきり言う。
 それでうろたえるような男性とはつきあわない。そうじゃないと時間の無駄だよ」と。

最初から、お互いの認識がすりあっているから、楽だった。
40歳と49歳の中年夫婦。こんな2人が子供を授かるには、何をすればよいか???
早速、妊娠・出産に関する書物を読みあさった。
すでに先に妊娠・出産を経験していた弟の奥さんからも、様々なアドバイスをもらう。
食事・栄養の工夫、生活習慣の改善、そして高齢出産を成功するための高度不妊治療の実態などなど、一気にいろんな情報を収集した。

毎朝の野菜・果物ジュース、玄米食、ビタミンサプリ、甘いものはとりすぎない。
身体を冷やさないために冷たい飲み物はやめる、好きなビールもほどほどに。
毎日30分以上のウォーキング、ストレッチなどなど、
妊娠しやすい身体作りのためにできる身近なことはすぐに始めた。

結婚して3ヶ月ぐらい経過したころ、
お互い若くない。念のため産婦人科で検査をしてもらおう、ということになり、
千駄ヶ谷にある有名な高度不妊治療の産婦人科に足を運んだ。

メディアにもよく出てくる、高名な産婦人科医に言われた衝撃的な言葉はこうだった。
「40歳と49歳のお二人に、普通に子供ができる可能性は宝くじに当たるようなものですね」

私たちは、「えっ???」と顔を見合わせた。ほんとに驚いた。
「でも、40代の女性でも、妊娠してる方はいますよね」と私が聞くと
「はい、いますけど、自然に妊娠できる方はほとんどいません」と言う。
「でも、私の周りには、自然妊娠している友人もいますが・・・」
「まれにはいますね。でも確率はとても低い」

まだ私たちは血液検査など、不妊原因を突きとめるための検査すらしていない状態だったのに。
いきなり「自然妊娠は宝くじに当たるようなもの」と言われ、本当にショックだった。

「個人差はないのでしょうか?」と引き続き疑問を投げかけた。
「ありませんね。40歳以上の女性は卵子が1年ごとに、どんどん劣化します。個人差はありません」

個人差はない、ときっぱり言われた。
本当にそうなのだろうか?
ショックと疑惑の念にかられたまま、その医者の部屋を後にし、妊娠カウンセラーとやらの肩書きの女性に別室に連れて行かれた。そこでは、体外受精による妊娠率のグラフやら、高度不妊治療のさまざまな資料を一気に見せられ、早口に一方的に説明を聞かされた。
「宮本さんは40歳ですから、今なら体外受精をすれば、可能性があります。2年、3年経ってから後悔しないためにも、早く決断されることをお薦めしますよ」

まるで、不動産屋の押し売りのようだった。
今ならお得。今買えばあなたは有利。今を逃すと大変な損をする・・・。
そんな脅し半分の営業トークを、どの程度プロなのか?わけのわからない肩書きの女性から
続けざまに浴びせられた。辟易した。傷ついた。そして憤慨した。

彼も同じ気持ちでその病院を後にした。
ここの医者には二度とかかるまい。
しかし、「宝くじに当たるようなもの」といわれたショックは大きかった。
本当にそうなのかなという不安な気持ちに苛まれ、数日は悶々・・・。

その後、”宝くじショック”について、弟に打ち明けたところ、すぐに別の産婦人科を紹介してくれた。弟夫婦が第一子を出産した、神奈川にある自然分娩派の池川クリニック。
すぐさま、藁をもすがる思いで、弟夫婦も付き添いのもと、池川先生に相談に出向いた。

池川先生は、宝くじ問題も含め、私たちの簡単な話を聞いたあと、こう言った。
「大丈夫ですよ。赤ちゃん、授かりますよ。お二人も健康そうですから」
実は、ここでもいわゆる検査はまだ何もしていない状態だった。
彼には前妻との間に2人子供がいる、という事実を話すと、
「あーそれならご主人は大丈夫でしょうね」とのこと。
私に至っては、見た感じ。健康そうだから。という医者らしからぬ、直感コメントのようだった。

何となく、腑に落ちない表情の私たちを見ながら、次はこう言った。
「じゃあ、ダウジングをしてみましょう」
私の手をとり、丸い石をひもでつるしたものを掲げ、なにやらつぶやいている。
神様と交信?でもしているのか。
これって、いわゆる、コックリさん?
やがて、私の手を離して、にっこり微笑んで
「あー、赤ちゃんきますよ。今年中にくると言ってます。女の子のようです」

はあ?

「当たるんですか?それ」と私が笑いながら尋ねると
「けっこう当たるんですよ-。でも、当たった人しか来てないのかもしれないですけどー」
にこにこと仏様のような大らかな笑顔で、そう言うのだ。

ダウジングで赤ちゃんを予言してくれた産婦人科医の池川先生。
医院を後にし、彼や弟夫婦と歩きながら、
「しっかし、不思議なお医者さんだったねー」と思い起こしながら、
でも、なんだか明るい気持ちで帰路についた。

「大丈夫です。40歳と49歳だって、まだまだ十分可能性ありますよ」
ダウジングして、私たちに赤ちゃんがやってきてくれるって言ってくれた。
事実、あまりに根拠の無いアドバイスではあったが、あまりに非科学的だとも思ったが、
それでも、私は十分に救われる思いがした。

まだ、間に合う。妊娠できる可能性はあると・・・。
徐々に宝くじショックから立ち治れそうな気がしてきた。

40歳からの婚活(その5)・・・奇跡のスピード婚

2009年正月明け。
ふっと素に返り、「いま会いたい人って誰なんだろ?」
年末のいくつかのメールの中に、彼からのものがあったのを思い出した。
臆せずに、「会いたい」という気持ちをそのまま、伝えてみた。

1月5日。仕事始めの前日。初めて2人で会う約束 at 六本木ヒルズ。
ローリングストーンズのドキュメンタリー映画「シャインアライツ」を観ることにした。
映画も楽しく、鑑賞後のおしゃべりも楽しく、尽きない話題とともに、銀座で串カツを食べた。
ちょっと奇天烈な人。ちょと結婚相手には向かないという印象だったのが、
初めてじっくり語る姿に、意外とまじめで、誠実な一面を垣間見た。

特に心に残っているのが、過去の離婚歴の話を打ち明けてくれたときのこと。
結婚は恋愛の延長ではない。相手を尊敬できることが大事、と言う。

へえ。そうなのか。

人は見かけによらないと言うが、外見とは裏腹に、しっかりした価値感を持った人とわかり、
これまでの自分の色眼鏡を恥じた。
そして、好きな音楽や映画の話、現在進行形の自然・環境をテーマにした仕事の話、
そして家族の話、、、と時間を忘れて、しゃべり続けた。

この1月5日の初デートから、一気に私の気持ちが動いた。
・・・と言いつつも、実は振り返ると、12月末までにも、お互いに、心の奥底にある気持ちには
うすうす気がついていたようだ。
いろんなことに興味を持ち、自分の考えをしっかり持っている。
その考えにお互い、共感できることがとても多かった。そして何よりも一緒にいて楽しい。

でも、この数ヶ月間は、ずっと押しとどめていたことが分かった。
私は、”結婚には向かない人”、という色眼鏡で。
彼は、”大事な仕事の相手だから”、というブレーキで。

そんな奥に秘めた、押しとどめていた気持ちが大量にあったせいか、
その後は、信じられないほどの勢いで事が進む。

1月7日:我が家で新年会。仕事仲間2人を交え、鍋を囲む。
1月9日:仕事の打ち合わせ。その後、夕食を2人でとり、楽しく談笑。
1月10日:連休なので、会おう、という誘いのメール。
・・・いろいろすったもんだの細かい成り行きは省くが、
ここから、いわゆる”おつきあい”が始まった。

そしてこの3連休中のうちに、結婚することを決め、
1週間ののちに、お互いの両親に報告。
私は父と母に長い手紙を書いた。

”父上、母上さま。大変に長らくお待たせいたしました。
 私は、ようやく、心から結婚したい!と思える人に出会うことができました。
 その方は・・・云々”

札幌にいる両親。直接に会って説明ができないので、
丁寧に、婚歴や年齢などのネガティブ要素も含め、彼の人となりをたっぷりと、
厚い厚い手紙を認めた。

父からは、すぐに返事のハガキが届く。いつもながらの達筆で、
”郵便受けに分厚い手紙。中を開くと重要な手紙が。
すばらしい報告をありがとう。カメラマンとは感性豊かな素敵な仕事・・・云々”

母からの電話で、父が私の分厚いハガキを見つけ、中身を読み終わったあと、
母のところに飛んできて、”ナコからの大事な手紙が来ましたよ!”と
それはそれは、大喜びだったと教えてくれた。
そして、懸念された、離婚歴のことも、父は気にしないと。
母もこれには意外だったと後から述懐。
私が選んだ人だから、最終的にはすべて受け止めてくれたのだと、本当に嬉しかった。
そして、祖母にも念願の孫の朗報が伝わり、「嬉しくて、涙が出るよ」と言ってたわよ、と母。

札幌の両親が認めてくれたことで、彼も本当に嬉しかったと言う。
そしてその後、彼も父と母あてに、心のこもった手紙を書いてくれた。

1月24日:彼の両親に挨拶にいく。
母の帯を締めた着物姿で、緊張しながら家に入る。
お父さん、お母さんには、想像以上の歓待を受けた。
うわさ通りの個性的なお母さん。優しい穏和なお父さん。
お母さんはずっと私に詰問責めだった。
「イチロウのどこが気に入ってくれたの?」その一点を・・・。

そして、帰り際には
「あなたみたいな立派なお嬢さんが、うちのどら息子と。
ほんとにありがとう。仲良くしてね。別れるならわたしが死んだあとにしてちょうだいね」と。

49歳、離婚歴2回の彼。もう結婚するなんてことは考えていなかったので、
急遽持ち上がった再婚話に、彼の両親は相当に慌てたらしい。
しかし、私の登場により、彼に新しい風が吹いたことを、心から喜んでくれた。
私も、ひと味違った面白い彼の家の雰囲気がすぐに好きになった。

1月末。両親の代わりに、神奈川に住む叔父・叔母に結婚の保証人を依頼。
弟夫婦も交えて、食事会をした。幼少期からの深いつきあいの叔父に
この結婚を認めてもらい、後ろ盾になってもらったことも大きい。

2月2日:入籍。両親に彼を紹介するまえに入籍することに彼は躊躇したが、
ここまできたら、当初の目標だった旧暦でいう2009年のうちに結婚したい!と強く主張。
日柄がとてもいい、と信頼する人に後押しされたこともあり、札幌の両親も説得して、無事入籍。

1月5日から1ヶ月立たないうちに、私はついに結婚にたどり着いた。
39年間は、なんとぐずぐずしていたことだろう。
40歳になってからの婚活。
目標設定通り、40歳と3ヶ月あまりの、このラストスパート!奇跡のスピード婚!

結婚が決まるときは、すべてのことがスムーズにいく、、、と聞く。
私の場合も、傷害がなく、気がついたら入籍までたどり着いていた。
無理なところがなく、お互いに気持ちが離れずに、とんとん拍子だった。

結婚って、そんなものなのかもしれない。

2月2日。渋谷区役所に婚姻届けを提出。宮本性になった。

宮本一郎(49歳)、暢子(40歳)
私たちは夫婦となり、好天の渋谷の街を笑顔で散歩した。

2011年7月17日日曜日

40歳からの婚活(その4)・・・型破りな娘の晩婚を祈る老父

2009年元旦。家族そろってお正月のおせちを囲む。
徐々に弱っている祖母を見ながら、なんとしても今年こそは
結婚の報告をしなければなあ、、、と、婚活の目標設定を1年延期。

そして1月某日。仕事始めに向け、東京に戻る支度をしている私に、
初めて、父親までが重い口を開いたのには驚いた。
「そろそろ、いいなと思う人がいたら、連れてきなさい」

東京に上京して約20年。
母や祖母からの結婚への期待は幾度となく聞かされてきたが、父は何も言わない人だった。
それだけに、よほどの思いが募ったのだろう、と、年老いた82歳の父の白髪頭をまじまじと
見つめてしまった。そして、心の中で、「ごめんなさい。ご心配かけております・・・」と陳謝。

母がこっそり耳打ちしてきた。
「あの子は型破りな娘だから、普通のサラリーマンとは合わないのだろうね、とお父さんは
心配していたわよ」

ふーん。
「型破りに育ててくれたのは、あなたですよ、あなた!」
「そして、私は正真正銘のサラリーマンなのだけれど・・・」と、心でつぶやく。
しかし、父の心配はなんか、分かる気がした。

父はこれまで、私の進路について、とやかく注文をつけることはなかった。
むしろ、父の本意とは違う方向に進んだ娘を尊重し、
自由に、のびのびとやりたいことをやらせてもらった。

たとえば、本当は父の好きな優雅なバレエを習わせたかったらしいが、
私は格闘技の試合の緊張感にあこがれ、高校時に空手部に入部。

できれば北海道に止まり、医者になって欲しかったらしいが、
部活の空手に夢中で勉学が追いつかず、私立文系コースに進路変更。

東京の大学に行くことは反対しなかったが、父が推薦したのは、
聖心女子大学、そして学習院。

「この私になぜ?聖心女子大を薦めるかなあ・・・」
なよなよしたお嬢さん大学になんか、私は一切興味はなかった。

その後、運良く、大学に合格し、バンカラな校風の早稲田の入学が決まった時から
父は、娘が自分が願っていたような、優雅な娘には育ってないことをようやく理解したようで、
大学4年間、音楽サークルでドラムを叩いていたことにも、
その後、一流企業の内定を断り、名も知らぬ小さな出版社に就職することを決めたことにも
強くは反対はしなかった。

その後の型破りな娘の行く末を、おっとりお殿様体質の父はひそかに案じていたのだろう。
40歳にもなり、いまだ未婚の娘が東京に帰る間際に、今までずっと口に出さずに
心にしまっていた言葉がついに出たのだ。

なんか、妙に心に沁みた。
あの父に、「いい人だなと思ったら、連れてきなさい」と言われた。
もう、家柄やら、肩書きやら、学歴やら、年収やら、そんな要素を望む時期はとっくに逸している。
・・・と、うちの父も悟っているんだと思った。

わたくしも!
大変に遅ればせながら、そう思います。

レッツゴー!婚活。ソーナチュラル!
色眼鏡をとって、自分が素直に、いいなあ、って思う人を探そう!

さてと。
そんな老父からの後押しも受け、2009年、新年度の婚活は始動した。

2011年7月16日土曜日

40歳からの婚活(その3)・・・アラフォー女子の欲張りな婚活

最愛の祖母から「あんたが結婚しないと、死んでも死にきれない!」と泣きつかれて、はや数年。
結婚しよう!結婚したい!という気持ちは大いにありつつも、30代後半、アラフォーに突入してからの日々は、相変わらずの、仕事三昧だった。

2008年春。39歳最後の年。会社はある事業のトラブルが発端となって経営危機に陥り、創業以来初めて、やむなく早期退職者を募る・・・という緊急事態になった。経営幹部の端くれとして、経営再建のための様々な対策に奔走し、毎日深夜まで働き詰めだった。

運命の人(=今の夫)とは、こんな多忙な最中に出会う。
信頼する会社の先輩からの仕事の引き継ぎ。
「変わった人だけどあなたなら大丈夫」と言われ、紹介された。

最初の印象・・・「なにか、心に深い溝を持ってそうな危うい人」
とにかく、忙しい時間の合間に設定した打ち合わせだったので、
ささっと簡単に挨拶をして、時間を気にしながら早口で必要な質問をし、
「では、またこんど・・・!」って感じで、とにかく慌ただしく、私は先に席を立った気がする。
・・・てなわけで、あちらの私の印象は、「なんて慌ただしい人」

早口で慌ただしいのは、私の性分。まあ、今もそう変わらないとこだけど。
当時はさぞかし、通常より、さらに輪をかけてひどい立ち振る舞いだったと反省する。

決して好印象ではなかったものの、彼が持ち込んだ企画が私の興味に大いに一致したこともあり、
その後、仕事に発展し、定期的に会うことになる。

「12月末までに結婚相手を決める!」という39歳ギリギリの目標設定中に現れた危うい人物。
9月に初めて会って、会社での打ち合わせ、仕事仲間も交えての夕食などを経て、
だんだんに彼の人となりが見えてきた。

とにかく声が大きい。エネルギッシュで、止めないとずっとしゃべっている。
身体も大きいが、とにかく、なんというか、その長時間トークには驚いた。
送ってくるメールもとにかく長い。酔っぱらった勢いで書いてくるメールは宇宙の話やら
環境問題やら、これまた奇想天外。久々に会う、好奇心旺盛な変わった人物だった。

私は父が変わった人だったこともあり、”変わった人耐性”が、かなりある方だ。
たいがい他の人が困惑するような変わった人、変人でも大丈夫。
いや、むしろ変わってる人を好む方かもしれない。
多少、枠をはみ出ているぐらいの人が好きだ。
枠の中に収まってる人はつまらない。

・・・彼と会い、そのエネルギッシュな弾丸トークと接しているうちに、だんだんと
変わった人耐性=変わった人好きの自分に、どうやら気がつき始めたようだった。
この人といると、なんだか妙に楽しい、と。

年末に近くなり、仕事が発展しくにつれ、かなり頻繁にメールのやりとりをするようになっていた。
その内容の奇天烈さ、にも、異常な頻度にも慣れ、その会話が心地よくなっていった。

結婚相手として意識していたか?というと、ほんの1%ぐらい?片隅には存在。
しかし、頭では大きく否定していた。だって・・・。

「結婚相手には向かないから、やめときなさい」
彼をよく知る同僚の女友達からのアドバイス。
その女友達曰く、アーチスト気質全開の人。一緒に生活ってタイプじゃないでしょう、とのこと。

たしかに、彼のバックグランドがその不安を物語っていた。
バツ2(離婚歴2回)、子供2人(前妻がひきとる)、フリーランスのカメラマン、しかも49歳。
これだけ聞いただけで、誰しも結婚相手には薦めない要素満載。
私も、彼と一緒にいるのはとても楽しい、こんなに話があう人もなかなかいない!と思いつつも、
頭の中で、彼のバックグラウンドが離れず、結婚相手としては”NG”・・・!を出していた。

・・・なので、彼との楽しい仕事の企画ばなしの傍らでも、せっせと、頭の中でOK!を出せそうな
相手探しの婚活をしていた。

39歳にもなって、欲張りな婚活をしていた、と今更ながら思う。
仕事がつがつのまま、独身できてしまった39歳。楽しくて気が合う相手が見つかってもなお、
世間的にいう、”結婚にふさわしいバックグラウンドを持った男性”を探していたわけだ。
離婚歴や職業の安定性、年収、年齢など、、、まあ、せめて30代前半の女性なら
求めてもいいかなと思われる、結婚相手に求めるいわゆる社会的要素?=バックグラウンド。

なんて、身の程知らずだったか、と思いますね。
アラフォー女子は、こんなことにこだわっていては一生結婚できませんね。

自分をよく鏡で見なさいと言いたい(過去の自分で今の自分が!です)

そのバックグラウンドがどれほど重要なのか?も、
本来ならば、賢いアラフォー女子は分かっていなければならない。
職業やら、離婚歴やら、年収やら、年齢やら、そういうことは取っ払っても
「あの人は素敵」と思える、認められる力が備わっててこそのアラフォー女子。

そして、自分は仕事を持ち、自立して生活してきたわけだから、
結婚相手に求めるのは、そんなバックグラウンドじゃないってこと。
自分の興味や、考え方や、将来の夢、生活の今後について、楽しく語り、
なにか一緒に寄り添って作っていけそうな、1人じゃなくて、2人だからこそと思える、
そんな人生のパートナーが欲しいんだろうって。

社会から、世間からの色眼鏡。親の色眼鏡。
自分自身の色眼鏡も取っ払えると、晩婚ゆえの理想的なパートナーが見えてくる。

私はそんなことに、2008年12月末まで気がつくことができず。
欲張りな婚活から目が覚めずに、自分との約束の2008年を終えてしまった。

2009年1月正月。今までになく、暗澹たる寂しい新年を迎えた。
「あー、結局、相手を見つけることができなかった・・・(ばあちゃんごめんなさい)」

どうする?2009年。
40歳のお正月。
両親は、もはや不憫であまり触れない?といった感じがひしひし。
しかし、祖母からは相変わらず、結婚への詰問が続いていた。
すでに、認知症気味で、意識がまだらになり、89歳の高齢になってまで
唯一気にかけていたことは、私の結婚だったのだ。

祖母のためにも、自分のためにも、結婚相手探し・・・、がんばろう。
力なくも、また新年に誓いをたてた。

2011年7月15日金曜日

40歳からの婚活(その2)・・・39歳までの総括をする

結婚するまでの39年間の総括をしてみると、
「なぜ40歳まで結婚できなかったのか?」が
浮き彫りになってくる。

特に、幼少期~思春期までの生い立ち、家庭環境と、そこで注入された価値観や
自分の受け止め方がどうたったか?を振り返るのは非常に重要。
年をとるほどに、恐ろしいほどにその影響が大きいことに気づくのだ。

家族は両親と兄・弟の3人兄弟。そして母方の祖母。
娘にとっての、男性のファーストインプレッションは、父親に多くを与えられる。
私の父は勤務医(内科)。実家は北海道日高のサラブレットを経営する牧場で、10人兄弟の7番目。幼少期からお手伝いさんがたくさんいたという、比較的裕福な田舎のお坊ちゃんとして育つ。兄弟の中でも格別におっとりしていたらしく、「天皇陛下」というあだ名だったらしい(笑)
独自の価値観を持ち、ユニークさ、変わった人度合いでいうと、かなりハイレベル。
父の逸話を話すと、友人に喜ばれることが多い。

逸話その1・・・
夏になると、家でスカートをはいていた。理由は、暑いから(南の国では男性も布を巻く)
それと、女性が長生きするのは、衣服を締め付けないことに起因しているのでは?と考え、実践したくなったらしい。
小学生の時、友達と家で遊んでいたら、真っ赤なタオル地のスカートをはいたまま(しかも、ノーパン)、「はい!写真をとりますよー」といって部屋にカメラを構えて入ってきた。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。でも、そのスタイルを決してやめない人だった。

社会の一般常識を気にせず、独自の価値観を持つ人。
クラシック音楽鑑賞、美術鑑賞、バレエ鑑賞など、文化芸術については並々ならぬ趣味を持ち、
そして、無類の読書好き、カメラ好き、ワイン好き・・・。”品の良いオタク”

そして、3人の子供達をサラブレッド(馬)のように育てるべく、毎日夕方には帰宅し、
我々を公園に連れて行き、森林散歩、野球、かけっこ・・・。
とにかく、自然の中で徹底的に身体を鍛えさせられた。
夏は海。子供は裸でいい、と言い、水着も着せてもらえず、父自ら裸で海辺で走り幅飛び、すもう・・・。
冬はスキー。足腰を鍛えるため、リフトには乗せてもらえない・・・。

このようなユニークさに加えて、古い日本の男子然、としているところもあり、いわゆる亭主関白な側面も大きかった。家事はいっさいやらない。札幌は雪国なので、冬になると毎日の雪かきが重労働なのだが、うちの父が雪かきをしたのを見たことがない。「手をけがすると仕事に差し支えますので・・・」といい、母や祖母、私たちが汗だくで雪かきをするのをじっと眺めている、という人。

母はそんな父と高校卒業後すぐ18歳の若さで結婚をした。
父は33歳で、15歳も年が離れていたが、父曰く、「今まで会った人の中で、一番話があうので決めた」と言っており、若くて美しい母だったこともあり、また浮世離れした、お殿様体質の父には、何かがぴたっときてしまったのだろう。

母は北海道帯広で生まれた。祖父が昭和19年、太平洋戦争のためフィリピン沖で戦死。当時3歳の母はほとんど記憶がないらしく、祖母と弟の3人で祖父の実家の帯広にて戦後を迎えたという。
28歳にして未亡人になった祖母は、2人の子供達を育てるため、事業を興した。幼稚園向けの教材キンダーブックなどを販売する会社「札幌保育館(フレーベル館)」。
当初は帯広で開始し、その後札幌に事務所を移転。祖父の父親(舅)にお金をかり、豊平区にわずかな土地を買い、会社と小さな自宅を建てた。少ない従業員とともに、北海道中の幼稚園、保育園に営業に回った。私が物心ついたとき、我が家は祖母の会社と同じ敷地内にあり、祖母が日々、明るくはつらつと社長業を営む姿をずっと見てきた。

私の脳裏に焼き付いている、女性のあるべき姿の大きなイメージは、この祖母。
夫が戦死して女手一つで子育て・・・などという悲壮感は全く見せず、凜として、明るい。
おしゃれな女社長は、外見・身なりをとてもこだわる人。いつもあつらえの洋服を着ていた。
仕事のあとは、従業員の男性たちと一緒に麻雀、お酒。店屋もののお寿司を摘むのが
楽しみで、弟と一緒によく部屋をのぞきにいった。
たばこを片手に、「やった、ロンー!」なーんて、満面に笑みの、かっこいい人であった。

そして、母も祖母の会社の経理全般を担っていたため、女性が働いているのが当たり前、という環境で育った。母は毎朝、家族6人分のお弁当、朝食を用意し、会社に出勤し、夕方に戻り、夕食の支度をする。私たち兄弟3人は鍵っ子。私は家に帰っても母がいないのは平気だった。
たまに友達の家に遊びにいき、お母さんがいて、手作りのケーキや紅茶なんぞ出してくれるのを見たり、遠足などのイベントで母親が同伴してくるのを見ても、まったくうらやましいとは思わず、むしろ「うざーい!ここんち」と思っていた。仕事に忙しく、干渉されない自分の家の環境、母親の姿が好きだった。しかし、後から判明したが、兄や弟は私とは違ったらしく、家に母がいないのが寂しく、自分の子供にはこの思いはさせたくない、と、強く感じていたらしい!(この違いは男女の差なのかもしれない)

祖母と母の後ろ姿から、「女の人が働いているのは当たり前、むしろその方がかっこいい」、と思っていた私は、当然に、そういう女性像を目指すことになったんだと思う。
・・・と同時に、働きながら、家庭を切り盛りする女性の大変さも、ずっと感じてきた。
特に、うちは殿様体質の父であったため。

「女って、なんて損なんだろう!」・・・いつ見ても、働きづめの母親を見ながら、感じてしまっていた。
・・・あーんど
「うちのお父さんみたいな、男との人とは絶対に結婚したくない!」とも。
「自分はこんな何も家事を手伝わない、自分が一番えらいと思っているような、殿様みたいな男の人はイヤだ!女ばかりが損するのはお母さん世代でおしまい!」というのが、私の幼少期からの男性観のつよーい刷り込みになっていた。

私が30歳過ぎても、なかなか結婚しない(結婚できない)のを見て、母がたまにため息をつきながら言っていた。「私のせいかもしれないわねー」

いやー、そんなことはないよ・・・と母をかばいつつ、内心は、そうね。影響あるかもね、と思っていた。

ファザコンという言葉があるが、あれはお父さんが好きで好きで、お父さんみたいな男性が理想ということの意味が強いのだろうが、私のように、決して父の様な男性とは結婚したくないコンプレックスの意味もまた併せ持ってる気がする。

いずれにしても、自分の父、母、そしてその両親の関係性の中に、私の結婚観が作られていったのは間違いない。ただし、人生観としては、結婚して子供がいる家庭を持ちたい、とは思い続けていたのだから、両親や祖母からたくさんの愛情を受け、すくすくのびのびと育ててもらった家庭環境には、大いなる恵みを感じ、肯定感が強くあった。

祖母や母のように女性も自立して、仕事を持ち、そして、父親みたいな身勝手、殿様体質じゃない男性と結婚をしたい・・・そして、子供も欲しい。そんな結婚観、人生観が39歳まで続いていた。

仕事と家庭の両立、そんな価値観を理解してくれる理想的な男性。
それを探し求めているうちに、、、気がついたら39歳になっちゃったってことなんだろうか。

私の結婚問題を一番心配してくれていたのは、そのばりばり仕事人だった祖母。
札幌に帰省するたびに、「あんた、おつきあいしてる人はいないのかい?」と詰問される。
祖母の口癖は、
「結婚しないとだめ。いくら仕事を一生懸命しても、年をとって女が1人は寂しい」だった。
私が仕事の話をすると、それはそれで喜んでくれてはいたが、そのうち
「なんであんたは経営者でもないのに、そんなに仕事をするのかい?」と首を傾げていた。

たまに、見合い話の結果を聞かれ、
「いやー、なんか価値観が合わなくてね!」なーんて発言をすると、「男の人なんか、誰と結婚してもたいして変わらないよ。資産がある人としなさい」と言う。

そうかねえ。変わると思うけどな-。
資産を求められたのには笑った。
祖母にとってはそれは重要だったんだろうし。その意味も今となって分かる部分もある。

35歳ぐらいの時。まだ結婚しない私は、祖母から今まで以上に強く言われた。
「あんた、もう30過ぎて、年をとって、みったくなくなったら嫁のもらい手がなくなるよ!あんたが結婚しないと、私は死んでも死にきれない!」
2つ下の弟が先に結婚したこともあり、祖母は私の居ないところでも、よく独身の私のことを不憫に思っていたらしい。このままじゃだめだ。ナコは絶対に結婚させないと、と。

「そんなー。死んでも死に切れない方が、長生きできていいじゃなーい!」・・・なんて
また、軽く返事をしていたが、毎年毎年、会うたびに祖母に言われ続けてきたおかげもあり、
「やっぱ、そろそろ結婚しないと、ほんと、まずいなあ・・・」と、祖母や親孝行などと、悠長な理由じゃなく、焦りが出てきた。真剣モードになってきた。

大好きな、尊敬する祖母からの熱い期待は、私の婚活に火を付けてくれた。

2011年7月13日水曜日

40歳からの婚活(その1)・・・「会社と恋愛してるあたし?」

2008年9月19日。満40歳の誕生日。
あーついに、40代に突入。
友人からのお祝いのメッセージ、メールの数々が届く。
・・・嬉しい、ありがとう!ありがとう!いやいや、ほんとありがたい。

しかし、その中に肝心の意中の人からのメールはない。
・・・というか、つきあっている人からのメールはなかったということ。
彼氏無し、で、40歳の誕生日を迎えてしまった。

どういう心境だったかって、今から振り返るに、
やっぱり寂しいというか、「あーあ!」って感じだったと思う。

数年前から、仕事がらみで知り合った、運命鑑定学「未来学」の凰華(おうか)先生によると、
2008年は私にとって、華(はな)の年。まさに人生の真夏、大いに幸せが開く年だそうな。
もう残り3ヶ月と少ししかないじゃないか!

ここから、仕事にまみれた、猛烈営業マンの行動スタイルが婚活にも展開された。
目標設定をしっかり行った。
「2008年度中に結婚する!」(というか、結婚する人を見つける)
営業リストには可能性のありそうな人はゼロなのに。だいじょうーぶかねえ?

ところで、当然ながら、40歳になる以前にも婚活は意識していた。
30歳前半までは、母親が心配してせっせと見合いの話も持ってきてくれていた。
ネットでのお見合いサイトも含めて、10回以上のお見合いを経験した。
しかし、どれも、箸にも棒にもかからないって感じで(相手から見てもそうだったろう)
2時間の見合い時間中、あまりに話が合わないので、何度もトイレに行き、友達に
「もう話のネタが尽きちゃった、どうしよう!あーつらい!」などとメールしたりしていた。

または、持ち前の営業マインドが出過ぎてしまい、相手の会社の事業方針やらを
根掘り葉掘り聞き出し、「なんか、面接されているみたいですね・・・」と言われてしまったり。
(お、この会社は研究開発費がけっこうありそうだから、こんど営業に行こ!)と
見合いってことも忘れて、仕事の営業先の開拓ネタに使ったりしていた。
30代後半には、こんなお見合い話も途切れてきたが、
結婚相手がなかなか見つからないと嘆く私に、仕事先の心優しいお客さんが、
「うちの会社の独身男性で、いいのを紹介しますよ!」などといって、食事をセットしてくれたり、
40代近い男女だけのいわゆる合コンなるものにも、2回ぐらい行ってみたことはある。
しかし、すべて玉砕=成果なし、だった。

30歳の時の会社のマネジメント研修時に書いた人生設計書には
「34歳までには結婚し、子供を産みたい」とある。
そうだ。もちろん、結婚もしたいし、子供も欲しいと、ずっと思い続けてきたのだ。
私ばかりでなく、たいがい仕事ばかりやってるように思われている女性は、
周囲の人に、「あなたは結婚したいと思ってないでしょう」と言われてきたと思う。
でも、本当に結婚なんかしたくない!と思っている女性は少ない。
同年代の仕事にまみれている独身の女友達は、むしろ
「早く結婚して、子供がほしーい!」と考えている人が多かった。
そして、相手がいない、どこにいるの??・・・と愚痴を言い、傷をなめあう。

同年代の男性はたいがい結婚してしまっている、か、または女子が強すぎて
釣り合いがとれない場合も多いようだった。
だから、もう私たちに残されている相手は
「すごーく年上か、すごーく年下か、あとは外国人しかいないね!」などと身勝手に話していた。
実際、外国人で日本人と結婚したいと思っている人とのお見合い紹介所、みたいなものもあり、
今になってみると、あれは騙されたに近いので恥ずかしい過去だけど、
こっそり、それに入会したこともあり。いやはや。

もう何でもあり、になってきていた。

40歳誕生日から3ヶ月あまり2008年度の年末。
今年は”華の年”、という鑑定学を信じて、自分の運命の人はどこにいるのか?
今まで以上に真剣に婚活モードだった。

今になって振り返ると、営業マインド全開で、がつがつしていて、恥ずかしいけど、
「今年中に結婚相手を決めよう!」と期限をきったことは正解だった。
いつか、いい人が現れる時に結婚すればいい、、、と思っていたら、今の私はないだろう。
結局、結婚はタイミング、そして縁もの、なのだ。

それと、「どうして結婚できないんですかねーわたし」などと冗談半分で話していた時に、
会社の役員の大先輩に、仕事帰り?の飲み屋で言われた一言は忘れられない。
「イーダは、ぴあ(会社)と恋愛してるからなー。だから結婚できないんだよー。へへへー」

・・・って、言われてもねえ。
こんだけの時間を費やして、一生懸命仕事してるのは、会社を良くしたいからなんですけど。
毎日毎日、夜遅くまで仕事して、お客さんや仕事仲間と飲んで、仕事の話をして、
深夜に帰宅して、家では寝るだけ人生。
休日も残務処理に会社に出かける仕事まみれの人生。
仕事のし過ぎで、肩こりや腰痛がひどくなり、マッサージやらエステやらに高いお金を
出費しつづけてきた人生。

まあ、これじゃあ、結婚相手も近づかないわなあ。
近づきたくなくなるわなあ。

・・・これ、今だから思うことです。

その時は、全然。ひたむきに、仕事、会社のやるべきこと、やりたいことに向かい、
最優先で時間を割いていました。何の疑問も持たず・・・。

そういう仕事にがんばってきたアラフォー女性、たくさんいる。
独身でも、生き生きと仕事できていたら、それでいいという価値観もある。
でも、私は結婚して、子供を持ち、家庭を持ちたかった。
当たり前のそんな夢を持ち続けて、40歳独身のまま、2008年、いました。

2011年7月12日火曜日

7月12日(火) 昨日の妊婦検診(35週6日)から一日経ち・・・

今日から36週。ついに10ヶ月(臨月)に入った。

実家のサッポロに里帰りして、2週間が過ぎ、
涼しくてよく眠れるせいか、
母が作る料理の栄養価が高いおかげか、
放牧された馬のようにのんびりしていなさい、と父に諭されてるせいか、
赤ちゃんの発育が促進されているように思える。
毎日1時間ミニマム歩いているが、それでも体重はどんどん増える。

体重増加より気になっている逆子問題。
30週あたりで、急に赤ちゃんがひっくり返ってしまい、
逆立ち体勢をやめ、頭を上にして、早くも約1ヶ月。

「逆子 治し方」 を何度、検索したことか・・・。
その他、「逆子 原因」「逆子 帝王切開」「逆子 お灸」・・・。

いわゆる西洋医学的には、逆子の原因についてあまり言及されず、
東京の町田の病院でも、移転先の札幌の病院でも
「うーん、治るかどうかわからないけど、逆子体操がんばってね!」と
軽くいなされ、なんとかがんばって逆子を治そうね!という気運は感じられないんだなあ。

だから、東洋医学にすがるわけだ。
お腹、足下の冷え、お腹の張りが原因、とされる、足のツボ(三陰交&至陰)に
お灸やら棒灸を据えてもらい、毎晩の逆子体操&シムス体勢で寝る、、、をまじめに、
そして、祈りながら続けてきたんだが・・・。

子宮の形が奇形だったり、子宮筋腫がある場合にも逆子になりやすいとある。
でも、どうもすべて納得がいかないわけで、「臨月までにはきっと治る!」と信じていた。

昨日7月11日の検診。「では、赤ちゃん見ましょう」と言われ、
ベテランのA先生がエコーの前に、おへそのあたりを触った。
「うーん、こっちが頭のような感じですが・・・」と。

エコーを見ると、やっぱり、まん丸の頭がおへそにあった。
「うーん。やはり骨盤位(逆子のこと)のままですねー」

ああ、南無三。

「ここまで来ると、これ以降に治るってことはあまり期待できないですねえ。
もちろん100%ではないですがねえ」
「40歳以上の高齢妊婦さんは、逆子ではなくても、4割以上が帝王切開になってますので、
逆子の場合は、母子の安全を優先して、帝王切開にしましょう」

私はもう多くは語らないのだけれど。

つまり、「逆子でもどうしても下から産みたいんです!」とか
「逆子っていったいどういう理由でなるのですか?どうしたら治るのでしょか?」とかとか・・・
ここで詰め寄ったところで、このベテランA先生のおっしゃること(=方針)は変わらなく、
リスクのない方法で産むことを最優先に選択する、ということに行き着く。

だから、もう観念したのだ。
あーかなしい、ホントにホントに残念なのだ。
観念・・・って思ってしまうのは、もう理性ではなく、本能的な感情。

この感情がどうしてもわき起こってしまうことだけは、残しておきたい。
涙がこぼれる、ほどではないが、その後、助産師さんからの手術の説明やらも、
半ば放心状態で、言葉が耳に入らないのだった。

あー、今日はもう一人っきりでいたい。と思った。

家に戻り、結果を両親に話すのもいや。
安全なら帝王切開でも良いじゃないの?、、、とか言われるのが目に見えている。

前回6月末の検診にて、A先生から、逆子なら帝王切開になりますと言われたと報告した時、
元産婦人科医の父も、逆子経験者の母も驚いた。
母も第一子は逆子だけど普通に分娩できたわよと。
84歳の父の頃には、よほどの緊急性がない場合は帝王切開はしなかったらしい、が
今の時代は逆子=帝王切開で安全に出産させるのがメインストリームなんだって、と説明したら、
「昔より、帝王切開の技術もあがっているのだろう。むしろその方が安心かもしれない」と
納得した模様。

しかし、わたしは頭ではわかっているが、身体がしおれている。

しばし、休息タイム要・・・。

しかも、帝王切開の場合は、37週を過ぎたら、早いタイミングで手術を設定するので、
なんと7月最後の週にしましょう、と宣告された。

そんな早く?
もっと赤ちゃんをお腹に入れておきたい・・・!
そもそも、8月9日長崎原爆の日の予定だったのに・・・。
15日の終戦記念日でもいいね、世界の平和を守る子にしようなーんて言ってたんだが、
8月までは待てない、7月中じゃないとだめ、と言われてしまった。
37週まで育てば、むしろ母体に置いておくリスクの方が高くなる場合もあると。
破水したり、溺れて死んでしまう赤ちゃんもいると。
えー、そうなの???なるべくぎりぎりまでお母さんのお腹にいる方が自然じゃない?

いろいろなクエスチョンがありつつも、逆子の予定帝王切開は37週から38週にするのが
一番安全だと、説明された。

他の人が聞いたら、たいした重要なことに思われないだろうが、
やはり、なるべく自然に産みたいと、こだわっている自分がいる。

さてと。
1日経ち、今はもう気持ちの整理がついた。

昨晩、夫のイチロウと電話で話したら、
「赤ちゃん、いつにしようか、7月28日がいい?7月29日の方がいい?
占いの先生にも聞いてみたら?なーこはいつがいいの?
おれは7月31日に卓さんとゲイリーが遊びに来るから、その前なら
いいよ!
退院する8月最初の週末の飛行機、とってあるし、ちょうどいいね。」

なんてことないのだ。妙に軽い。
元気で安全に産めることが大事と以前から
逆子→帝王切開には否定的ではなかったイチロウ。
むしろ、早く赤ちゃんにあえるし、東京から駆けつける予定も経つし、
いいこともあるってことなんでしょう。

そんな明るいイチロウの声を聞いていたら、
赤ちゃんも、早く出てきたいのかな、早く3人で一緒に暮らしたいのかなと
そんな風にも思えてきた。

それで、涙が出るような、暗澹たる気持ちが、少しずつ薄らいできた。

最後に。気持ちの整理に一役かったもの。
ネット検索・・・「吉村医院 危険」

わたしのこだわりの源になっていたモノは、
私が妊娠する前から、弟に薦められて読んでいた、自然分娩で有名な、かの
愛知の吉村正先生の「お産って、自然じゃなくっちゃ」
人間が赤ちゃんを産むという行為は太古の昔から引き継がれてきたもの。
医学の介入なく、お母さんと赤ちゃんの産む力をもとに、自然に産むことがいかに
大事であるか、いかに自然に産んだお母さんと赤ちゃんは美しく尊いものか、
自然に産む哲学を語っている先生。

自然分娩のすばらしさを、この先生の本やビデオで脳味噌に注入されていた。
40歳過ぎの初産でなければ、助産院で産みたかったなと思っていた。

しかし、ネット検索中、この吉村医院の超自然分娩思想のもと、
赤ちゃんの命を落としているお母さんの体験談や
出産がうまく進まず、ぎりぎりで大病院に搬送され、帝王切開で出産を担当した産科医の緊張の手記など、先生の自然分娩の著書のすばらしい体験談には出てこない、裏側の事実がいくつも掲載されていたのを発見。

「自然に助からない命もある、それはしかたがない、自然の摂理だ」という吉村哲学。
その哲学をとるか、私の主治医のA先生の方針の「リスクのない安全な方法があるならば、そちらを選択して、母子ともに守る」をとるか。
わたしは、今の先生を選んだし、それで良かった、と、腑に落ちた。
イチロウはもちろんのこと、両親も同じ考えだ。

このネット検索数時間にて、ずっと自然分娩にこだわっていた、気持ちの整理ができた

そしてそして。おまけ。
逆子問題について、心のよりどころを見つけた。
同じく自然分娩を提唱している、東京・杉並の参院「明日香医院」の大野明子先生の著書
「分娩台よ さようなら あたり前に産んで あたり前に育てたい」。
やはり逆子に悩み、検索していたら、出てきた本。つい数日前に購入。

逆子について大野先生論を説明する章があり。
ここでは、逆子は徹底的に治すので、ほとんど逆子出産はない、という(なんと!治せるの?)
早期に見つけて、逆立ちをしなさいと指導すると言う。3日間逆立ちすればたいてい治ると。
それでもだめな場合は、エコーを見ながら、外回転術で治すと。
そして、逆子問題に納得感をくれた一言

「逆子のお母さんは安産」

なんと??
逆子になるお母さんの体型の特徴として、骨盤が広いことがあげられるといい、
だから、大きなお尻が骨盤にはまる=収容できる=逆子になる。
だから、逆子が治ったお母さんのその後は、安産なことが多いと言うのです。

この大野先生に診察してもらえていたら、違ったかもしれないという、悔しさと
私の子宮が奇形だから逆子なのではなく、骨盤が広いから逆子なのかもなという嬉しさ(?)
両方の気持ちが入り交じり、、、、涙なくして読めませんでした。

逆子が治ってたら、もしかしたら安産だったかもしれないけど、
でも、安全を優先して、元気な赤ちゃんに出会うことを受け入れよう。
この年になって、ひょっこり赤ちゃんを授かったことだけでも、十分に幸せ。
元気な赤ちゃんを胸に抱くことができれば、それ以上に望むことなんか、ない。

1日経ちました。
逆子問題は、自分のこだわりとの決別でもあり、
これも意味がある通過点だったように思えている。

さあて、あと16日を大事に過ごそう!

<自宅にて>

自由人生活、急遽、残り16日に迫り・・・

会社人生を辞めたら始めようと思っていたブログ。ようやくスタート!
期限が無いと、人間ってのは、動かないものだ。

2011年3月末に会社を退職し、しばらく自由人と思っていたけど、
仕事を辞めると決めたら、ぽこっと赤ちゃんを授かった。
52歳の42歳の私たち中年夫婦のとこにやってきてくれた奇特な赤ちゃん。
8月9日が予定日だったものの、9ヶ月過ぎてから逆子になってしまい、
幾多の逆子体操、お灸治療などで奮闘したものの、昨日の定期検診でも逆子のまま。

やむなし(涙)

帝王切開での出産に気持ちを切り替えることにした。
37週を少し過ぎた7月28日(木)、予定日。

こんなきままな自由な生活もあと残りわずかになり、
急に焦ってきてしまいますよ。

だから、この貴重な16日間。
これまでの仕事人生20年やら、40歳での結婚、42歳での出産など
書き留めておきたいこと、自分のために残しておこうと思う。
もしかしたら、悩めるアラフォー女性への一筋の光になることもあるかもしれないし。

<北海道庁の蓮池(里帰り中の故郷サッポロ)>