2011年7月26日火曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠後期) 里帰り出産を決めて。

<北海道大学構内の蓮池>

3月末、祖母の死後しばらく、札幌に滞在して葬儀の後処理などに追われる母の側にいた。
5月、東京に戻った後も、相変わらず、原発問題はなかなか落ち着かなかった。
夫はこの後も不安定な状態が続きそうだ。生まれてくる子供のことを一番に考えよう、と言い、
5月半ばには、札幌での里帰り出産を決めた。

28週(8ヶ月)を過ぎ、いよいよ妊娠後期に入っていた。
地震のため延び延びになっていた会社の送別会が行われ、ようやく職場の仲間にも妊娠の報告ができた。友人・知人たちにも、徐々に情報が伝わり、お祝いや激励のメールが届いた。
同年代の友人は、「すごく嬉しいニュース。勇気をもらったよ!」と、42歳にして妊娠できたことを
自分のことのように喜んでくれた。
ようやく妊婦であることがオープンになり、「おめでとう!」と言ってもらえて、
私も本当に嬉しかった。
なんとなく、仕事を辞める時に心に引っかかっていた、”申し訳ない”、という気持ちが
少しずつ薄らいでもくれた。

母子ともに順調で、体調はすこぶる良かった。
5月末。近所の映画館にて、「うまれる」という出産ドキュメンタリー映画を観る。
死産という痛ましい経験談、18トリトミーという非常に重い障害を持つ赤ちゃんを生み、
育てている夫婦、不妊治療の末、子供を持つことを諦めた40代後半の女性など、
実在の夫婦が登場し、監督がすべての撮影をその本人たちの許可を得た上で進めるという手間のかかるプロセスを経て、妊娠・出産という難しい問題を、真摯に丁寧に、かつ逃げずに
対峙し、映像に仕立てた。
本人たち自らが、この作品が自分たちの問題を消化するきっかけになるかもしれない、とか、
自分たちが出演することにより、癒される、救われる人がいるかもしれない、などの使命感を持って
自らの意志で参加しているところが、素晴らしい映画に導いたのだ。

この映画を観て、私はこのタイミングでこの作品に出会えたことが本当に嬉しかった。
涙が溢れて止まらなかった。心に残る、いい映画だった。
そして、出産すること、へのいろんな意味での覚悟ができた。
何があっても、どんな事態でも、受け止めるしかない。
すべてを受け入れることが、命ということなのだなあ、と思った。

6/末、33週(9か月)過ぎ、里帰り出産のため、実家の札幌に帰省。
本当は町田の我が家で臨月、出産まで夫婦一緒に過ごしたかった。
原発は夫婦、親子を引き裂く。東電、政府を恨む。

7月末、36週(臨月)に入り、お腹の張りが出てきた。
今までになく、ずしっと重みを感じ、今までみたいにスタスタと歩けなくなる。
最低1時間のウォーキングを欠かさずに来たが、横になる時間が多くなってきた。
そして、相変わらず逆子が治らない。
ここ1ヶ月あまり、逆子治療に効く鍼灸も、逆子体操もずっと諦めずに続けてきたものの、
赤ちゃんの頭はおへその上部にしっかりとある。丸い堅い頭がしかとある。

なにか逆子のままでありたい理由があるのかね。
生まれてきたら聞いてみよう。
無事に元気で出てきてくれたらいいじゃないかと、夫も励ましてくれる。
それ以上は望むことはないよねと。
授かっただけで、もう十分に幸せなことだから。

7/27(水)これから入院。
明日の帝王切開の手術前、最後のエコーで赤ちゃんの位置を確認するらしいが、
このままいけば、明日、赤ちゃんがうまれる。
38週と2日。どんな顔をして出てくるのか。
祖母の墓前にお祈りをして、出かけよう。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠中期) 3.11大地震、そして祖母の死


<伊勢外宮にて> 

安定期とはよく言ったもの。
2/22、16週(5ヶ月)に入ると、つわりも治まり、気分すっきり。
下腹部が少しずつ膨らんできた。
体重はまだそれほど増えていないものの、胎盤が安定してきたので、
赤ちゃんは急カーブで成長する、と言う。
毎朝、お腹に手を当てて、夫と一緒に赤ちゃんに話しかけた。

休暇に入ると同時に、我が家のすぐ裏、野津田公園の緑の中での散歩が日課となり、
身体も精神状態もかなり健やかになった。
自分が心地よいと思える場所に引っ越しができたことも、
赤ちゃんを授かることができた、一つの大きな要因だと思える。
実は昨年5月、最初に妊娠したとき。都会のど真ん中からの引っ越しを決めた。
大好きな「風の谷幼稚園」に子供を通わせたいと考え、
幼稚園のある川崎市栗平付近に新居を探し、町田のはずれに絶好の中古物件に出会う。
結果、流産してしまったものの、あの時の赤ちゃんが、この田舎の自然に
導いてくれたんだ、と思う。

3月に入り、ますますお腹が膨らんできた。
まだ胎動は確認できないけれど、むくむくと赤ちゃんが成長してるのを感じる。
安定期のうちに行っておきたい場所、会っておきたい人リストを作った。
札幌の祖母、伊豆大島の叔父・叔母、伊勢神宮へのお参り・・・などなど。

まずは、近場。伊豆にいこうと思いつき、十数年来、毎夏のすもぐりに
通い続けた河津に早咲きの桜を見に、3/8、9と1泊2日の小旅行。
馴染みの干ものや「かねた水産」のおじちゃん、おばちゃんとの再会。
「元気な赤ちゃんを生んでくれよー」と、どっさりと美味しいミカンのお土産をくれた。

こんな穏やかな日々が急転したのが、3/11(金)
町田の自宅1階リビングで、1人のんびりしていた午後15時少し前、あの大地震がきた。
大きな揺れと同時に、地域一帯は停電。余震が何度も来て、ご近所の奥さま方が一斉に家から飛び出てきた。みんな一同にこんな大きな地震は生まれてと、恐がって身を寄せ合った。
震源地が宮城という情報以外、詳しい情報が分からぬまま、慌てて夫と一緒に乾電池を買いに
車でショッピングセンターに向かった。町中の信号が消え、道路は大渋滞。大混乱。
ようやくガソリンを補充し、3時間以上かけて、隣町の夫の実家に避難。ここは停電を免れていた。
深夜のテレビ報道で、予想以上の大惨事を初めて目の当たりにした。
震源地程近い、気仙沼の町の大火災の様子が放映されていた。
遠く離れていても、身が震える。恐ろしい光景だった。

その後、福島第一原発の問題が勃発。テレビ報道、ネット上は放射能汚染関連の、真偽の程が全くわからない情報に振り回され始めた。そして余震が来る度にベット脇に備えた運動靴を履き、すぐさま避難できるように身構える。非常用の水・食料を詰めたリュックサックを玄関前に常備した。

そして、数日後。水素爆発が起きたすぐ後。夫の従姉妹の夕美子さんから電話が入る。
「あの水素爆発で、これから大量の放射能が東京にも降りかかるわよ。私たちは長崎に逃げることにしたの。あなたたちはどうするの?暢子さんは妊婦なんだから、絶対に東京にいちゃだめ。実家の札幌に帰るか、九州あたりに逃げなさい」

夫は夕美子さんの断固とした口調に驚きつつも、電話を切るとすぐさま
「どうしようか。僕たちも逃げようか。どうしたい?」と私に問うてきた。
原発事故後、ある程度の恐ろしさを感じていたが、水素爆発後は自分でも驚くほどに動揺した。また、その夕美子さんからの電話が、その不安な気持ちに拍車をかけてくれた。
妊娠していなければ、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。どちらかというと、被災地にいち早く乗り込み、救援活動をしたい!などと勇ましい気持ちがわき上がるたちだ。
でも、お腹には小さな赤ちゃんがいる。余震や停電の続く状況でも不安なのに、さらに恐ろしい放射能の雨が降り注ぐことになるなんて・・・。テレビ報道がいくら安全と言おうと、全く信用ならなかった。

守るべきものができた私は、直感的に「ここには居たくない。なにか気持が悪い」と感じた。
そして、夫に、「すぐに逃げたい。東京には居たくない」と言った。
2時間後には、車で町田の家を出ていた。とにかく、関東を離れ、西へ西へと、車を走らせた。

3/15から約10日間。三重四日市から、伊勢神宮、熊野神社、高野山と、西国巡礼の旅のごとく、
大地震と原発事故が鎮まるのを祈りつつ、小さな命を守るための旅を続けた。
結果、この間に一時的に関東から離れたことで、かなり平静な心に戻れた。
そこまでしなくても、、、という周囲の声も無視して、飛び出てきて本当に良かったと思った。
夫が、妊婦が精神的に不安定になるのが一番良くない、とすぐさま判断してくれたのも嬉しかった。
そして、今になって、この時期、かなりの放射線量が関東全域にも降り注いでいたことが分かる。
自分たちは自衛できた。英断だった、と心から思う。
自分たちで自らの身を守るしかない。
信じるすべがない。
この信じがたい程、愚かな状況は今現在もまだ続いているが・・・。

そして、今度は西国巡礼の旅の後、まもなくのある朝。実家の母が慌てた声で電話をしてきた。
「ムッターの心臓が止まってしまった」と。
祖母は40歳過ぎ、若くして孫を持ったことから、ドイツ語で母親の意の”ムッター”と呼ばれていた。
3/27(日)朝。祖母はついに入院先の病院で息をひきとった。

私の結婚を誰よりも心配し、そして40歳で結婚できたことを誰よりも喜んでくれた祖母。
2009年2月末。夫のイチロウと一緒に札幌に結婚の挨拶に帰ったとき、
認知症でまだらぼけの頭だった祖母は、その時だけは、意識がはっきり戻り、
私とイチロウの顔をじーっと眺め、嬉しそうに言ってくれた。
「あんたたちは、似てるね。この人はいい顔してるね。
ナコは良い人に巡り会ったね。運が良かったね」と。

そして、「仲良くしなさいよ。優しくするんだよ」と言い、
「本当によかった。ああ嬉しい、嬉しい」と、涙を流して喜んでくれた。

最愛の第二の母のような存在の祖母に、ようやく結婚の報告ができた。
私が結婚するまでは、死んでも死にきれない!と言い続けてきた祖母。
私のお腹に赤ちゃんが宿っていることも、半ば理解してくれていたと思う。
ようやく、戦争で死に別れた祖父とも天国で再会できているだろう、と、
私も、母も叔父も、親族みんなで、祖母の91歳の大往生を暖かい気持ちで見送った。

祖母の命を引き継ぐ、新しい命が私のお腹にいる赤ちゃんなのかもしれない。
祖母の亡骸が骨になってしまった後は、不思議と、すぐ側に、いつも傍らに
祖母がいてくれている気がして、心強くなった。
「ムッターが赤ちゃんを守ってくれる」

祖母の強い魂が、3/11大地震後から長く不安に駆られていた私を支えてくれる気がした。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠前期) つわりの中、退職準備


<自宅の庭の雪景色>
2011年年明け。1月7日妊婦検診。9週3日、胎児は22.1mm。
「順調ですね」と町田市民病院の女医さん。
流産経験のある人はみんなそうだろう。とにかく、初期流産が怖い。
心拍もあり、経過は順調と知り、ふーっと息を吐く。

渋谷の職場には1時間半近くかけて通っていた。
都会暮らしに疲れ、昨年秋、緑の多い町田の田舎に引っ越した。
ありがたいことに、妊娠前期にありがちな吐き気などの重いつわりはあまり無かったが、
朝の通勤ラッシュはつらかった。そして、たまに強烈な眠気に襲われる。
2月初旬をめどに、取引先への挨拶など、仕事の引き継ぎ業務に追われた。
退職することで、ただでさえ、上司、仲間、部下には迷惑をかけている。
これ以上の余計な心配材料は与えたくなかった。
妊娠したことは一切報告せずに乗り切りたかった。

表参道の鍼灸院には通い続けた。徐先生曰く、
「今回は大丈夫ですよ。妊娠脈もしっかり出ている。
12週を過ぎれば安心ですね」と言ってくれた。

妊娠脈・・・。妊娠した後、手首の内側にはっきりと現れる強い脈のこと。
とにかく不安だったので、気がつくとこの妊娠脈を確かめる、習慣がついた。
妊娠するまでに、徹底的に食事や生活改善、日々のウォーキングを続けてきたおかげか、
多少のつわり・眠気はこらえつつ、多忙な仕事の引き継ぎをなんとかこなし、
1月末の12週目を無事に迎えた。

これまでの20年間、様々な部門で社内外の多くの方々との関わりの中、忘れがたい案件を
たくさん手がけてきた。退職の挨拶、後任の紹介の行脚をしつつ、とにかく一生懸命、
ひたむきに取り組んできた日々が愛おしく、思い出され、そして、
多くの失敗、失態の中、仕事人として成長させもらったことを感謝した。

近しい仲間からは、
「仕事人間だった人がいきなり辞めちゃったら、寂しくなるんじゃない?」なんて言われたけど、
今まで馬車馬のように全力投球したきたからこそ、ちっとも悔いは無い。
思った以上に晴れやかな心持ちで、すべてを後進に譲ることができた。

流産の危険性のある妊娠前期は15週まで。
あと1ヶ月弱をなんとか乗り切りたい・・・。
毎日、祈るような気持ちで、職場と家の長距離を往復した。

2月始め。仕事の引き継ぎが完了。
3月末退職までは、溜まりに溜まった有給休暇を消化させてもらうことにした。
明日から休暇に入るという前日夕刻。
職場の仲間達が、大きな大きな花束で見送ってくれた。
「飯田さん。長い間、本当にお疲れ様でした。改めて3月末に送別会はやりますが、
ひとまず、一区切り、ということで・・・。」
みんなか暖かい、労いの拍手をもらう。

「期の途中でこのようなことになり、申し訳なく思っています。
でも、みんな、この間大きく成長し、引き継ぎをしながら頼もしく感じてきました。
この後のことは何も心配していません。
20年間、全力で仕事をしてきましたので、悔いはありません。
そしてずっと、これからも私はぴあを応援し続けます。
ありがとうございました。」

爽やかな気持ちでいっぱい。
笑顔で会社を出た。

”おまえは仕事(ぴあ)と恋愛している”、とまで言われてきた。
どれだけ会社、仕事、仲間との時間を費やしてきたことか。
仕事のトラブルに、会社の経営危機に、何度眠れない夜を過ごしたことか。

辞める話が社内に広まった後、”ぴあの象徴”、みたいな飯田さんが辞めるのは
とてもショックだと言われて、別の部門の女性の後輩と語り合った時、
仕事と家庭を両立する、という女性のキャリアのモデルを作りきれなかったことが
少しだけ心残りになった。ぽっかり穴を空けてしまい、ごめんね、という気持になった。
私は女性幹部の筆頭でもあり、唯一の管理職でもあったので、
20代、30代の女性の後輩達には、表に現れないけど、けっこうな失念を与えてしまった。

でも、いろんなキャリアのあり方があって良いんだよ、と伝えておきたかった。
「私は不器用なたち。仕事人生突っ走り系なんだよね。
40歳までがむしゃらに働いた分、また健康を取り戻したら、
次の人生のシーズン2のあり方を考えようと思う」

11月末からの仕事の引き継ぎ、20年間の仕事の集大成がようやく終わった。
お腹にいる小さな小さな胎児は、おとなしく、私を見守ってくれた。

2月末、待ちに待った16週(5ヶ月)、安定期に入る。

2011年7月25日月曜日

40歳からの子作り(その5)・・・42歳3ヶ月で自然妊娠。

<自宅の裏山>
2010年12月24日クリスマスイブ。
四谷の産婦人科。エコーで小さな小さな胎児の原形が見えた。6週過ぎ。
心拍も確認でき、「今度は大丈夫そうですね」とお医者さん。

こんなに早く結果が出るとは予想もしなかった。
赤ちゃんは私の決意を待っていてくれたんだな、と思う。
仕事を辞めなかったら来てくれなかっただろう。
妊娠にはストレスが大敵だとよく言う。
不妊治療自体がストレスの原因になる場合もあり、治療を辞めたら
ぽこっと自然に授かったという話もよく聞く。

5月に流産した時、どうやって仕事と両立していこうかと一瞬悩んだ。
幼少時代から、女性も当然のように仕事を持ち、そして家庭も育児もこなすイメージだけを
追いかけてきた。でも、42歳という年齢、事業の責任者という立場から、
その理想を追求するのは無理だ、身体が訴えた。
仕事に全力投球できなければ、組織に迷惑がかかる。
自分にしか出来ない、などというおこがましい考えは毛頭なかったが、どこかで
仕事のキャリアと家庭の幸福の両立、という理想に自分自身が縛られていたのかも。
知らず知らず、いつも緊張しながら、気が休まらない仕事優先の日々を過ごしきた。
がむしゃらに頑張ってきた。

”一回、肩の力を抜く”、という道に導いてくれたのは、子供を授かりたいという母性であり、
女性本来の本能だった。仕事脳にまみれていた20年間から解き放たれて、
一気に身体の中に激変が起き、空から天使がふわっと舞い降りてきた感じ。

赤ちゃんの心拍を確認できた瞬間、
「ああ、神様から授かった」・・・と。
心からそう感じた。

40歳で結婚。子供を授かりたい一心で、不妊治療の専門病院の門をたたいたり、
様々な専門図書を読みあさったり、同じ悩みを持つアラフォー女子の友達とも
たくさん情報交換もしてきたし、ネットで「高齢 妊娠」を検索したことは数知れず。
最初の千駄ヶ谷の医者からの「宝くじに当たるようなもの」というネガティブな診断から始まり、
体外受精でも40歳以上の妊娠確率はどんどん下がることや、高齢者は流産する率も高いこと、
そして、実際に流産してしまったこと。

でも、私が最後まで支えにしていたのは、実は、自分に都合のいい、楽天的なコメントや経験談の数々だった。

神奈川の池川クリニックの院長が「今年中に赤ちゃん来ますよ」とダウジングで予想くれたこと。
表参道の鍼灸の院長がお腹を触りながら「あなたならすぐに授かりますよ」と言われたこと。
体外受精を何度もトライしてだめだった47歳女性が諦めかけた時に自然妊娠したという逸話。
45歳で自然妊娠にこぎつけたジャガー横田の経験談なども、万に一つの希望として、
自分にも訪れてくれるだろう、という明るい光をくれた。

会社の元同僚で既に3人の子持ちのKさんは、流産後にも、こういって励ましてくれた。
「大丈夫。きっとまた授かるよ。
流産したあと半年後、1年後に赤ちゃんを授かった友人が何人もいるよ」

帯広の友人のJさんは、「天使再来セット」というかわいいメッセージカードと
十勝の小豆を送ってくれた。小豆は女性ホルモンにとてもいいんだよと。

弟夫婦は、絶えずポジティブなアドバイスをくれた。特に、義妹は、
「お姉さんにはつらい決断だと思いますが、仕事量を減らすことが最終的な壁ですねと」と
的確な指南をしてくれた。

妊娠・出産、という超プライベートなことではあったが、家族や近しい友人と悩みを分かちあえたことは最後まで本当に心の支えになった。
もちろん、夫は常に絶対的に寄り添ってくれた。
仮に子供を授からなくても、私たち2人の楽しい人生がある、という気持ちでいられた。

そして、装丁がぼろぼろになるほど、何度も読み返した私の心のバイブルは
「赤ちゃんがほしい!」(沢田喜彰先生著/永岡書店)
この先生は、「不妊の9割は克服可能」と説き、「今の不妊のほとんどは、健康管理の悪さと不摂生な日常生活が背景にある”機能性不妊”」。生活習慣・全身の健康と不妊の関係を強く指摘している。そして、安易に最先端の治療を試みるまでに、また「自分立ちにはムリ」と諦めてしまう前に
足下の自分の健康のベースを取り戻す、という、基本的な不妊解決のアドバイスが書かれている。

私はこの沢田先生の考えを徹底的に信頼した。
残念なことに、この本に感動し、受診しようと電話をかけた時、すでに沢田先生は鬼籍の人だった。
対応してくれた目黒の沢田クリニックのスタッフから「1ヶ月前に先生は亡くなりました。いまクリニックは診察しておりません。でも、先生の本を実践して、ぜひがんばってください」と穏やかな口調で言ってくれた。

このバイブルには、何年もの高度不妊治療では結果がでず、最後にこの沢田クリニックを訪れ、
毎日の食事や生活習慣の改善、徹底的に歩く指導に従った結果、45歳で自然妊娠した人の逸話もあった。わたしはこうした経験談をずっと心の傍らに、希望を持ってきた。

そして、妊娠するプロセスは奇跡の集積。
最終的には、科学を超えて、人智を超えた世界だとも思っていた。
赤ちゃんはお母さんを選んでやってくるという、池川クリニックの先生の考え方にも共感した。
妊娠する=自分の努力だけで成果を求められる、達成させる、というたぐいの”仕事的なこと”ではなく、まさに”授かりもの”なんだと感じていた。

42歳過ぎ、再び赤ちゃんを授かることができて、心から、この恵みに感謝した。
・・・と同時に、健康に産み、育ててくれた両親に感謝した。
そのベースがなければ、このような恵みは訪れなかっただろう。

同じく40代で妊娠を望んでいる友人たちにも、一筋の光になればと思った。
また、20代、30代の若い世代の後輩たちには、”生む性”として、自分の身体の健康管理の大切さを伝えたいと思った。子供が欲しいと願う人には、”妊娠に適した年齢”を今から意識して欲しいと、切々と語った。

20年、身体を酷使し、仕事が終わらないうちは深夜何時でも帰らない、帰らせない!といったごりごりの指揮官体質だったがむしゃら私が、今さらながら、の、考え方の大転換。
”生む性”である女性は、身体を壊すような仕事の仕方は絶対にしてはいけない。
そういう会社組織や社会の体質を変えないといけない。なにより、自分で自分の大事な身体を
しっかり守る”自衛本能”を持たなければいけない。

がつがつ仕事する姿しか見せてこなかったので、急にそんな真逆のことを言い出す私に首を傾げる仲間、後輩もいた。

42歳過ぎ、遅ればせながら、私は自分自身の”母性”にようやく、ようやく目覚めた。

2011年7月24日日曜日

40歳からの子作り(その4)・・・流産後の不調との闘い、そして決意

自然に妊娠できる力はあるとわかったことは唯一の救いだったものの、
流産の後は、ぐずぐずと、体調不良が続いた。

とにかくつらかったのはひどい頭痛。
医者は、妊娠中に出るホルモンの影響なので、しばらくすると治るというが、
1ヶ月経っても治らなかった。
今までこんな頭痛に悩まされた経験がなく、もしや脳に腫瘍でも出来たのでは?と
脳外科でMRIまで撮影してもらった、が、異常なし。
ホルモンバランスが崩れているだけ、とのことだった。
仕事にならず、休むこともしばしばあり、仕事仲間にも迷惑をかけていた。

その頃、職場では新しいサービス開発準備が架橋。
リーダーの私自身が先頭にたって動き回り、パートナー企業との折衝や
クライアント開拓に当たらなければならなかった。
流産のため、2週間以上も動けなかった分を取り戻さなければ・・・との焦りもあり、
時間にも、精神的にも余裕がなかった。
職場のメンバーには、なるべく事情を包み隠さず話をし、理解を求めながら組織運営をしていた。
でも、今までのようにパワフルに仕事に対峙できない。

ただ、ここで自分が頑張らなければ。
この新しいサービスが日の目を見るまでは、と、少ない気力を振り絞って、
毎朝、ベッドから這い出る思いで、会社に向かっていた。
早く立ちなおりたいという気持が、ますます身体に無理を強いていった。

2010年夏は例年以上の猛暑だった。
連日続く外回りの営業。
あるとき、明らかに脱水症状になり、主治医に駆け込む。
咳がとまらず、アレルギー性の気管支炎も再発していた。
その後、ほぼ毎日、点滴を受けながら仕事を続けた。
ついでに、この頃から、持病の腰痛も悪化してきた。

家に帰ると、何も手につかない。
夫にだけは、「もう仕事を休みたい」と弱音を吐いていた。

そんな体調不良との闘いが続いた夏の終わり。
表参道の鍼灸治療院の徐先生から言われた一言が、私を大きく動かした。
「うーん。せっかく良い状態になっていたのに。
こんなに疲労が貯まっている身体には、赤ちゃんは来てくれませんよ」

明らかに仕事過多だった。
無理を強いてきたこの数ヶ月を、徐先生に厳しく、ぴしゃりと指摘された。
「どちらが大事なのかを考えないとね。宮本さんにはこの2年ぐらいが勝負ですよ」

言い換えれば、もう2年ぐらいしかない、ということだろう。
相変わらずの欲張り精神が治っていない。
仕事も、赤ちゃんも、と、両方の夢を追っている。

鍼灸治療が終わり、着替えをしながら、先生の厳しい指摘を反芻し、
今本当に自分にとって優先すべきことは何か?を改めて突きつけた。

仕事も、赤ちゃんも、と両方に全力投球することは、今の私の年齢・立場ではもう限界。
これまでのように、24時間、仕事脳。全力投球の生活はもうできない。
メンバーにも迷惑をかける。
赤ちゃんを授かる夢も中途半端になる。

「思い切って、仕事を辞めようか。」

そして、困ったときの駆け込み寺。
いつも的確に指南をくれる友人の美佐子さんに急遽会いにいき、
最後の背中を押してもらった。
「すぐに辞めるべき。明日にでも、会社に辞表を出すべきだよ。」ときっぱり。
私が最終決断をする道をつくってくれた。

9月末。約20年勤務をしてきた、ぴあ(会社)を辞める、決意をした。
身体はもちろん、精神的にも今までになく追い詰められていた。

10月始め、上司と面談。
流産後、体調が非常に悪く、仕事に責任をもって全力投球ができない。
今の事業責任者の立場を全うできないので、会社を辞めたい。
話をしながら、涙が出てくるのが抑えられず、我ながら
「ああ、相当にメンタルにもきてるなあ」などと感じながら、切々と陳情を続けた。

流産後も、人前で泣くことはなかった。夫の前ですら、涙を流さなかった。
泣かないことで、前向きに乗り切ろうと思ってきたが、心に貯まっていた哀しみの澱は
溜まりに溜まっていたようだ。ついに溢れ出てきてしまった。

この涙がなければ、上司はうんとは言わなかったかもしれない。
こいつが泣くなんて、これはただ事じゃないな、と、ようやく分かってくれたようだ。

11月始め、社長との面会を経て、正式に退職が認められた。
今の事業を引き継いでくれる仲間もようやく見つかった。
11月15日辞令が出て、職場の仲間にも報告する運びになる。
その時の、みんなの真剣な、そして不安の入り交じった深刻な表情は一生忘れられない。
万感の思いを込めて、説明をし終えた。もう力尽きた、抜け殻のような身体だった。

この後、自分の仕事人生の総決算。
ゆっくりと、3ヶ月ぐらいかけて、仕事の引き継ぎをすることになる。
そして、仕事を辞める決意をしたあと、身体には大きな変化が訪れた。

いつもの表参道の鍼灸にて。11月半ば。
「あら。今日は力が抜けていい身体になっていますね。また妊娠できそうな感じですよ」
この徐先生の触診の力は驚くべきだ。
こうして、少しの変化も見逃さず、迷わず明言するところが、またすごいのだ。

私も驚いた。
「え?そうですか。先生。実は、仕事を辞めることにしたんです」

先生は、満面に笑みをたたえ
「そうですか!それは良かった。よく決意しましたね。
それで、こんなに身体が柔らかくなってるんだ」

身体はなんと正直なのだ。
これまでの頭痛、腰痛、気管支炎の症状が一気にどこかに飛んだ。
なんだったの?

「身体は脳が支配しているんですよ」と先生。

体調が悪い中、一生懸命に仕事と格闘し、ますます体調が悪化し、精神的にも追い詰められ
身体を正常に司るべき自律神経、ホルモンが機能不全を起こしていたのだろう。

大きな荷を下ろすことを決め、一気に全身に血が巡りだしたみたいだ。
驚くべき急変。
身体は待っていた。私の決意を待っていたんだなと強く感じた。

そして、その後、1ヶ月後の12月末に再び妊娠が判明。
本当に思いがけず、こんなに早く、天使が再来してくれた。
赤ちゃんも私の決意を待っていたのだ。

2011年7月21日木曜日

40歳からの子作り(その3)・・・妊娠力ってなんだ?

妊娠したいと望んでいるアラフォー女子の悩みは深い。
婚活もそうだけど、子作りに関しても、思い切って友達や医者に悩みを打ち明けることで
思いがけない情報や、いろんな経験値に出会える。
なかなか表立って話せないことが多いナイーブなテーマであるがゆえに・・・だ。

つい最近、表紙に「妊活」と大きく書かれた女性誌を書店で見つけた。
妊娠活動・・・?
ちょと無理のある造語だけど、でも、そうやって改めて書かれると、婚活と同じように
自分の考えや価値観を見つめなおし、身体の状態を把握し、ゴールに向けてやるべきことに
時間を意識しながら、しっかり取り組んでいかないと達成できない、ある意味での活動だと思った。

私が、「ここの鍼灸治療の先生にすがろう!」と思えた時、自分は子作りに関して、
どういう姿勢で望みたいのか?がはっきりしてきた。
そして、それは二人でとことん話し合い、相談し合ってきた、夫婦としての結論でもあった。

すでに41歳になっており、時間的にも体力的にも楽観的な状態ではない。
でも、できれば授かりたい。
自力で努力できる範囲のことは、全部やってみよう。
ただし、多額の治療費のかかる高度不妊治療には手を出さない。
もし授からなかったとしても、そのことを夫婦で受け止めよう、と。

婚活にも子作りにも、その人の考え方、価値観が大きく影響する。
良い悪い、正しい間違っている、ではない。
なにを選択するかなのだ。
その選択は自己責任であり、
最終的にはすべて自分で受け止めるしかない。

2009年秋に表参道の鍼灸治療院に通い始めてから6ヶ月あまりたち、2010年3月頃。
基礎体温のリズムが安定的になり、低温期と高温期の境目が
はっきり出るようになってきた。
週1回の治療に加え、毎日、自宅でも徐先生の指導のもと、お灸を据え、
これまでの食事療法、生活改善、毎日のウォーキングなども地道に続けた。

「すごく良くなってきましたねえ。脈の状態がとてもいい。お腹の冷えも
とれてきました。そろそろ天使がくるような気がしますよー。」とのこと。
この鍼灸治療院では、なんと通院して半年の間に妊娠する人が約6割。
1年以内だと、約8割の人に妊娠の朗報が出ているという。

「私は41歳ですけど、他の方はどうですか?」と聞くと、
「うちは、多くの患者さんが35歳以上で、40歳以上の方も半分ぐらいいますよ」という。
そして、その多くが東京都内で忙しく仕事をする、いわゆるキャリアウーマン。
徐先生からが患者さんに指導する中で、なかなか改善してくれないことの一つが、
”睡眠不足”、だという。

「みんな、子供が欲しいと思って高い治療費を払い、ここに来てくれるんだけど、
毎晩遅くまでハードに仕事をして、疲れ切った身体の人が多いんですよ。
そんな夜遅くまで起きてる身体は、血流も悪いし、身体中にコリが残る。
妊娠力を高めたいならば、早く寝ることがとても大事なんですけどね」

ハードワークのアラフォー女子は、忙しいことを理由に、女性ホルモンに大事な
睡眠をないがしろにしている。東京の女性は働きすぎです、という。

私も、この徐先生に指摘された、働き過ぎのアラフォー女子の典型だった。
深夜まで働いている、または外食していることが当たり前。
家に着いて、眠りに就くのは、だいたい1時過ぎ。

「せめて、12時には寝て欲しい」と徐院長。
女性ホルモンの機能活性は、10時~2時に行われるらしく、その時間に眠っていることが
とても大事だという。これは、一般的な女性医学の本などにもよく書かれており、周知の事実だ。
頭ではよく理解している。あとは実行するだけ。

2008年の経営危機以後、私はぴあ子会社の役員として、新しい事業の開発・推進のリーダーとして10数人のメンバーの組織を預かっていたが、結婚後は、子作りのためにも、また夫婦の大切な時間を作るためにも、これまでのように平日毎日の深夜残業、外食という生活を改め、極力、夕方までに仕事を終わらせ、健全な時間に帰宅するよう、大きく時間の使い方を変えてきた。

健全な時間、とは、だいたい8時~9時ぐらい。
毎日とはいかないまでも、週に半分は自宅で食事をする。・・・働きばちだった自分としては、大幅な仕事時間の改善だった。そして、徐院長の助言をうけ、睡眠改善も少しずつ意識して行った。

2010年5月連休の初めのこと。
徐院長の予言から1ヶ月あまり。
生理が遅れ、妊娠検査薬の結果が「+」(プラス)と出た。

「なんと、本当に!?」
こんなに早く結果がでるなんて。
予言通り、空から天使が来てくれた!
徐院長の見立てはすごい。
夫婦2人で、大喜びだった。
お互いの両親にも報告。
出産までの仕事のやりくりなどを考え始めたりしていた。

しかし、喜びもつかの間、連休明け。
仕事に向かう途中で調子が悪くなる。
・・・そして出血。
血相を変え、慌てて産婦人科に駆け込んだ。

「切迫流産ですね。なんとかぎりぎりまだ受精卵はあるけど・・・。
うーん。とにかく安静にして、様子を見ましょう」

医者からは仕事も家事も一切休み、自宅安静するように指示された。
ホルモン注射や投薬の効果で出血は多少収まりつつあったが、下腹部がちくちく痛み、まともに歩けない。仕事どころではない。やむなく、上司や一部の部下には事情を話し、大事な仕事の約束などもすべて任せ、自宅で静養。

日に何度か仕事の相談で会社からの電話やメールが来る。
仲間に申し訳ないと思う気持ちと、お腹の赤ちゃんがどうなってしまうのか不安で不安でたまらない気持の両方が押し寄せ、普段はめげないタフな私も、気がふさんでいった。

そして残念ながら、2週間安静の甲斐無く、5月半ば、9週目で流産と診断された。
「うーん。赤ちゃん育ってないですね。これ以上は難しいと思います」

もう少し様子を見ると変化があるのでは?と、涙をこらえながら先生に万が一の
可能性をすがりたかったが、でも、手元にあるエコーを見たところ、
素人目にも、これは駄目なんだろう、ということが、はっきりと、分かってしまった。

近くの喫茶店で診察結果を待っていた夫。
「だめだった」・・・と言うと、同じように、大きく顔を曇らせた。
天使はまた空に帰って行っちゃった。喜びから一転。身体中が凍ってしまいそうだった。

しかし、夫は励ましてくれた。
「でも、一歩前進したよね。自然に妊娠できると確認できたんだからね」
また、赤ちゃんは来てくれると言ってくれた。
この半年の地道な努力・治療のおかげで、妊娠力がアップしたことは確かだ。
次に希望をつなげよう・・・。
そして5月末の手術の後、供養と自分自身の心を鎮めるために
秩父の今宮神社にお参りにいった。

初期流産は実はかなりの確率で起きることだ。
40歳以上の高齢であれば、30%~40%近い確率とも言うらしい。

そして、流産したことを打ちあけた時、
「わたしも経験してるんだよ」
「知人でも流産後に、また授かった人がいるよ」と多くの友人に励まされた。

実の母親なぞは、
「私は2回も流産してるから、大丈夫よ」と明るかった。
娘の私も知らなかった。
こうして、表に出ないけれど、流産という悲しい事象が多くあること、
確率的に必ず発生してしまうこと、を知り、妊娠・出産に至るまでの
自然の摂理、淘汰を、女性は受け止め続けてきたのだなと、しみじみ思った。

天使の再来を願いつつ、仕事に復帰を始めた。

2011年7月20日水曜日

40歳からの子作り(その2)・・・東洋医学にすがる

神奈川の自然分娩派の池川クリニックで勇気をもらったあと、
妊娠にこぎ着けた同じ40代の友人から、恵比寿のファテリテイクリニックを紹介してもらう。
「実績もあるし、感じのいい先生だったよ」との言葉を聞き、新たな気持ちで診察に向かった。

ここの院長は、頭ごなしにすぐに体外受精!と詰め寄ることなく、本人の納得性を大事にするという方針を持ち、40歳という年齢ではあるが可能性はあるので、まずは夫婦共に身体の状態を調べるため、基本的な検査をしましょう、とのこと。

1ヶ月半ほどかけて、通常の不妊治療の初期段階で行う諸々の検査(血液検査、卵管の検査、フーナーテスト、精子の検査)などを行い、特に問題はない、との結果が出た。
最初はタイミング療法からと言われ、排卵時期を確認しながら自然分娩を期待していたものの、2,3ヶ月たったが、そう簡単には妊娠しなかった。そのうち、念のため、体外受精をする場合の説明会に参加してみては?とのアドバイスと、体外受精のプロセス、妊娠の確率、費用などの分厚い資料をくれた。

その後、参加申し込みをしたものの、体外受精の分厚い資料を一通り読み、
どうも感覚的に受け付けないなあ、と感じてしまい、結果として説明会には行かなかった。
たくさんのホルモン剤を投与し、採卵し・・・、というプロセスが怖かった。
40代過ぎて、欲張りなのは100も承知だが、自然に授かりたい、という気持ちがむくむく出てきた。

そんな折り、ファティリティクリニックの受付に、ある鍼灸治療院のパンフレットをふと目にした。
”不妊治療に実績・・・アキュラ鍼灸院”
身体の持つ本来の力を引き出す鍼灸治療。
私も過去に腰痛治療で何度もお世話になった。これはいいかもしれない・・・。

「ここに行こう!」
ぱっとパンフレットをとり、すぐに電話予約。
表参道のビルの最上階にある、小さなこじんまりとした鍼灸院にすがるような思いで駆け込んだ。
初めての診察。

中国籍の徐院長。同じ年くらいの若い爽やかな先生で、にこやかに診察してくれた。
これまでの検査データなどにもすべて目を通したあと、私のお腹のあたりをじっくり触った。
そして、一言。
「宮本さんは、やわらかい、いいお腹をしています。これならすぐに妊娠できますよ」

いきなり、目の前に青空が広がった気分。
私は、思わず寝たままで、院長を見据えて、詰問した。
「え??どこが・・・・? どういう風に大丈夫なんですか???」

なんていったって、千駄ヶ谷では、”宝くじに当たる確率”とまで言われたのだ。
それが、この鍼灸の先生の触診で、「すぐに妊娠できそうだ」との真逆の診断結果になったのだ。
その後、身体の状態を丁寧に診ながら、お腹や足を触診したり、脈を診たり、舌を診たりしながら、
じっくりと説明をしてくれた。
とにかく、私は年齢の割には良い状態。エネルギーがある。体力がある。
元々、妊娠力は備わっている身体だから、冷えをとり、腰痛、コリをとり、適度に運動を続け、
鍼灸治療をしていけば、きっと授かるでしょう、と言う。

自信を持って、笑顔で、そう言ってくれた。
「西洋医学では40歳になると自然妊娠は無理とすぐ言いますが、東洋医学では、健康な女性は生理があるうちは妊娠できる、という考えなんですよ」と。

私の感性にぴたっときた。
この徐先生に託そう。
ここの鍼灸治療院にすがろう。

いきなり、身体中に元気がわいてきた。
大丈夫ですよ、と言われたことだけで、気持ちが思いっきり前向きになれた。

今振り返っても、この気持ちが前向きになれたことが、実は一番の治療だったのだ。
妊娠には脳が大きく関与している。
リラックス、前向きな心がないと、女性は妊娠しずらい。
ナイーブな身体なのだ。

2009年の秋、表参道の鍼灸治療院で、高齢妊娠に向けた、大事な第一歩を踏み出せた。