2011年12月29日木曜日

42歳からの子育て・・・生後5か月と1日(初めての風邪)

<うつ伏せ訓練中(まだ元気な頃)>
とうとう生後5カ月が過ぎた。
そして、初めて、風邪をひいた。
生後6カ月ごろまでは母親の免疫があるから風邪はひかない、と聞いていたのに!
月曜の夜から、コホコホと咳が始まった。
まさかねえ。まだ5カ月だからねえ。と思っていたが、鼻水も出てきた。
何事も初めては心配。

医者にいき、まだ生後5カ月なのに風邪をひくのかと尋ねたら
「そこまで厳密じゃあないんですよ。そろそろ、風邪をひいてもおかしくない頃です。寒いですしね」

そっか。やはり風邪かあ。
シロップをもらい、3日間飲み続けたけど、それでも咳がとまらない。
痰がからまっているのか、少しぜーぜーしていて、つらそうだ。
再び心配になり、年末のお正月休暇だから今日のうち、と、別の小児クリニックに連れていく。

「ちょっとぜーぜーしてますね。吸引しましょう」と村野小児科の村野院長。
4分間吸引をしてもらい、再び聴診器。
「すこし楽になってますね。休み中にも、吸引してもらった方がいいと思います」

「単なる風邪でしょうか?」と心配になりたずねた。
村野クリニックはアレルギー科が専門。
ただの風邪で、痰がからまってぜーぜーしているのか、それとも
アレルギー性のものか、今の時点では判断できたいとのこと。
もしかしたら、気管支が多少弱い体質なのかもしれない、けど
単なる風邪かもしれないし、様子を見ましょうと言われる。

薬局にいき、咳を楽にする薬をもらった。
シロップ、朝晩に飲む粉薬、寝る前に上半身に貼る、貼り薬。
こんなに赤ちゃんに薬をあげてもだいじょうぶなのかな。
またまた心配になる。

薬剤師さんにきく。
赤ちゃんでも大丈夫な分量ですから、安心してくださいね。と。

飲ませなくて悪化するのも心配。
初めてだし、苦しそうだから、言われた通りに飲ませよう、そして貼ろう。

私も気管支が弱い体質。風邪をひくと、咳がとまらなくなる。
みきおにも遺伝したのかもしれないな。
室内を乾燥させないように、慌てて加湿器も買った。
エアコンの掃除もした。
お布団も日干しにして、、、家の中の埃もアレルギーのもとになるから、と。

年末恒例、楽しみにしていた餅つき大会も諦め、お家でお留守番。
思い起こせば、12月。
少し動きすぎたかな。わたし。
みきおを付き合わせ過ぎちゃったかな。わたし。

多少の人ごみ、元気なら慣らさないとと思っていましたが、
いざ、こうして風邪をひいちゃうと、反省モードに。

バリバリの仕事人の頃。
仕事納めぎりぎりまで、挨拶回り、忘年会飲み続けの睡眠不足の師走。
休みに入ったとたん、ぎっくり腰になったり、寝込んで高熱出したりしていたこともあったっけ。
みきおの風邪も、師走の疲労がたたったのかもしれない。

まあ、でもね。
こうして、風邪をひいたり、熱を出したり、ひとつひとつ経験して、
赤ちゃんには免疫がつき、母親には経験ができ、
お互いに成長していくのだろうよ。


ところで、ずっと書けなかったブログ。
生後5か月になり、いろいろな変化がおとずれた。

●首がかなりしっかりすわり、片手で抱っこできるようになる。
→それと同時に、私の腱鞘炎、首、腰の痛みもかなり楽になる。

●かなりのけぞる。まだ寝がえり未満。

●大人が食べているものにかなりの興味を示すようになる。

●よだれも増えてきた。
→離乳食の準備そろそろ。

●哺乳瓶、自分の手で支えられるようになる。

●「いない、いないバー」喜ぶ。

●私のメガネを手でつかもうとする。
→とにかく、身の回りのものすべてをしっかり手でつかみ、なかなか離さない。

●食事の支度時などには、おんぶをスタート。
→一人遊びは20分ぐらいが限度。抱っこ抱っこ攻撃(泣き・訴え)

●とにかく、自分の手で遊ぶ、舐める。口の中に全部の指(こぶし)を入れようとする。
最近は、ついに両足を持ち始めた。


お母さんの顔を見ることが一番の安心。
どんなに泣いていても、私が近づくと、笑顔が出る。
意外とあとくされが無いのだ。
「なんでこんなに待たせたんだよー」と、いじいじ怒る感じは少なく、
とにかく、お母さんに抱っこしてもらいたい、遊んでもらいたい。

風邪をひいてる、つらそうにしている赤ん坊を見るのは、本当に痛ましい。
早く、咳が治まりますように。

久しぶりに自宅でみきおと2人だけのゆっくりの時間を過ごす。
小さい子どもの頃を思い出す。
風邪でつらいときはお母さんがいないと眠れなかったっけな。

咳止めシロップのおかげで、ぐっすり寝ている。
私も昨夜は3時間おきの授乳でねむねむ・・・。
みきおの隣、ベットにもぐりこもうぞな。

2011年12月4日日曜日

42歳からの子育て・・・生後4カ月と5日(首すわる、母、始動。)


毎日毎日、「あー今日こそはブログを書きたい!」と思いつつ、
半月が過ぎてしまった。
生後四カ月を過ぎ、この数週間で格段に成長したみきお。

どうでしょう。
これが”首がすわった”という状態でしょうか!?
つらかった腱鞘炎が、気がつくとかなり楽になっていた、それは
”首がすわった”おかげでありました。

さてと。
このところ、予防接種が始まったり、
大都会丸の内にお出かけにいったり、かなり活動的になってきました。
おっぱいの分泌もだいぶ安定してきて、日中は2時間おきだけど、
夜はまとめて5時間ぐらい寝るようになった。
ああ、この時がくるのだなあ。(おっぱいはカチカチになってしまいますがね)

お互いに睡眠たっぷりの翌朝は機嫌が良い。
首がすわる頃には、生まれたての赤ちゃんの身体に、大きな変化が起きているのだろう。
立て抱きができるので、視野が広がり、ますます外界に興味津々。
新しい刺激を得て、脳みその配線がぱちぱちと音をたてているようだ。

父イチロウも、みきおの笑顔のおかげで、
抱っこしたり、あやす時間が楽しく、長いこと、遊んでくれる。
助かるのだ。

42歳からの子育てにまい進していた今秋のある時期から、
ちょとした新しいプロジェクト(取り組み)に関わることになり、
育児の傍ら、自宅で打ち合わせをしたり、南町田の現場に
出かける日々が・・・。

その取り組みとは、「808プロジェクト」(やおやプロジェクト)
”子どもの生きる力を育みたい”というコンセプトのもと、
ミュージカルレッスンを始め、いろいろなアートに触れる機会や
安心、安全な食を提供する場を作る、子どもハートプロジェクト(仮称)。

まず、第一弾は、12月18日(日)オープンのレストラン「サラデコ食堂」
地産地消を旗印に、子どもやお母さんに楽しく集ってもらう食の場をスタートする。

元ぴあの大先輩の八幡さんがプロデューサー。
20年ぶりの再会がつい2か月ほど前。
臨月のある日、私がフェイスブックで八幡さんを発見し、
懐かしくてついメールを打ってしまった(笑)ことから始まったという、
本当に本当に不思議な縁から始まった。
みきおが連れてきてくれた縁。
わたしたち夫婦の夢の第一歩につながっていくような予感。

そして、もう一人のプロデューサーの岩橋麻男さんは、我が家から車でほんの5分ぐらいの
すってきな自然の中に住んでいるご近所の方。
子ども服のブーフーウーの創業者。
・・・そして、なんと以前は、我が家の3軒お隣の家に住んでいたことが発覚。
これには驚いた。
この二人の素敵な不良中年?の魅力に引き込まれ、事業企画のお手伝いを始めた。
町田という地縁から始まった、新しい取り組み。
みきおを育てながら、母親の視点で、子どもたちに良い環境を、
自ら創ることになって、なんだかわくわくしている。

そんなわけで、みきおの首すわる師走より、
すこしバタバタの年末になりそうです。

◎サラデコ食堂のWebサイト。みてくださいね。
http://saladeco.com/

2011年11月12日土曜日

42歳からの子育て・・・生後3ヶ月と15日(初の予防接種&三ヶ月検診にいく)

11月11日(木)雨の中、近所の小児科「山口小児クリニック」に向かう。
つい数日前、鼻づまりとたまに出てくる咳が気になり、初めて小児科を受診。
助産師さんがオススメしてくれたのがここのクリニック。

「問題なさそうだよ。まあ、念のためシロップだけ出しとくけど」
大前研一みたいな、体格のいい豪華な山口先生。
国に先駆けて、ポリオの不活化ワクチンを独自導入しているところが気にいり、
かかりつけの小児科にしようかなと思っていた。

「お母さんいくつ?」
「43歳です」
「お父さんは?」
「52歳です」
「初めてのお子さん?」
「はい。そうです」

「・・・」
(へえ・・・??、と夫の顔を見たらしい)」

ぽんぽんと会話が進み、子気味良い。
風邪ってほどじゃないとのこと。安心した。
ついでに、予防接種のことをいろいろ聞き、複数のワクチンを同時接種する方法などを
丁寧に教えてくれて、
「ポリオの説明は、金曜10時にやるから、もしよかったら来て」とのこと。
そして、三種混合の第一回予防接種も予約してきた。

11日金曜はお昼から三ヶ月検診がある。
ちょうどよい。

というわけで、11日は朝から夫に付き添ってもらい、
ポリオの説明を聞き、三種混合の予防接種を打ってもらった。
ポリオは、生ワクチンにより起こりうるトラブルについて。
約100万回に1回の確率でポリオに感染する危険性があるとのこと。
不活化ワクチンは日本以外の先進国はすでにとっくに実施しているのに、
日本は10年前から導入を検討するといいながら、いまだ決定がなされていない。

「この国のことを信用していないからね。ぼくらは」と山口先生。
先行して、より安全なワクチン輸入を始めているとのこと。
ただし、きちんと説明をして、納得してもらった上で実施したいからと
なるべく父親にも参加してもらう説明会を行っているという。
見た目よりも丁寧な先生だなと感じた。

・・・てなわけで、山口小児クリニック終了。
その後、近所でランチを済ませて、鶴川市民センター内の検診会場へ。
すでにたくさんのお母さんと赤ちゃんが待合室に大集合中。

かなり待ちそう。
しかし、こんなに3,4ヶ月の赤ちゃんがご近所にいたなんて。

30分ぐらいの待ち時間の後、最初に集団で育児に関する座学。
事故防止、離乳食、歯のお手入れなど。
その後、体重・身長を測かるお部屋へ。
オムツ一枚になり、測定。5890g。62.9cm。

そして最後に小児科の先生による診察のため、隣の部屋へ。
そこには、あの豪快な、大前研一みたいな山口先生がいた。

「なんだ、先生。またお会いしました。よろしくお願いします」
「おー。俺も忙しいのがわかっただろ?大変なんだよ、休む間もなく働かされてるよ」

手早く、ちゃっちゃっと赤ちゃんの身体を診察してくれて、
「はい、どこも異常なし。体重がもう少しあってもいいかなと思うけど
手や足の筋肉には問題ないから、このままで行きましょう。大丈夫」
・・・とのこと。

なるべく母乳でがんばろうと思い、ミルク補充は最低限できている。
3ヶ月したら生まれた時の体重の2倍ぐらいになると言う。
6キロに少し足りない。母乳が足りてないのかな?
ちと心配したが、豪快先生が大丈夫と言ってくれたので信頼しよう。

「この後は帰ってまた診察だよ。疲れたよ」と山口先生。
「今日は2回も診察、ありがとうございました。がんばってくださいー」
「いやだよー。疲れたよ(笑)」

町田市には6万人の子ども(乳幼児?)がいるけど、
入院施設のある小児科は、なんと町田市民病院だけ、と新聞記事にあった。
子どもは少なくなってるというが、小児科医や施設の不足も深刻のようだ。

私たち母親、父親は、しっかり赤ちゃんの健康について勉強して、
不必要な診察で迷惑かけないようにしないと、と思った。

ともあれ、今日の診察行脚は無事終了。
みきお、はさすがに疲れた様子。
初めての注射は、やはりわんわん泣きじゃくった。
こうして、少しずつ、たくましくなっていくのだろう。

親も、赤ちゃんもべんきょう、べんきょう。

2011年10月28日金曜日

42歳からの子育て・・・生後3カ月(先人の教えに学ぶ)

今日で生後3カ月。
出産後、授乳に悩み、寝不足がつらく、なんて大変なんだ!と
イライラしていた時、先輩お母さんや助産師さんから言われたのが
「3カ月ぐらいたつと落ち着くわよ」
「100日を超えると、赤ちゃんはまとめて眠るようになるわよ」

ついにその3カ月が来た。
うーん。確かに!

このところ、外出したり、客人が来たり、の、突発事項がない限りは
母乳だけで乗り切れるようになってきた。
おっぱいが詰まる、などのトラブルも今のところ無く、たまに
3時間以上あいてしまうとおっぱいが硬くなるが、
授乳すると、すーっと治る。

先人の言うことはだいたい正しい。
仕事でもそうだったけど、先の見通しが立つと、心身ともに楽になる。
最初の子供は大変。でも2人目以降は楽チン、というのはこのせいだ。

この先、まだまだ見えないことばかりだけれど、
この3ケ月間の学びを踏襲し、とにかく、先輩お母さんの声に耳を傾けよう!と思う。

昨日、学生時代のバンド仲間の加勢田香さん(旧姓植木さん)が遊びに来た。
20歳の頃は、戸川純バンドで「レイダーマーン!!!」などと絶叫していた彼女も、
今や高校1年、小学5年、そして2歳半の男の子3人のお母ちゃん。
下町葛飾区に住み、姑さんと同居。子供の学校のPTA会長を引き受け、
育児に全力投球の頼れる先輩お母さん。

「抱っこさせてー」
たいていのお母さん経験者は、乳児を抱くのが大好き!
ようやく6キロに届きそうな樹和(みきお)を抱きながら
「あーこのぐらいの時が一番幸せだわー。かわいいねー。かわいいねー」
顔をくしゃくゃにして、赤子を撫でまわしていた。

「ハイハイし始めたら大変よー。歩き出したらもっとだけどね!」
一番下の2歳半のハルくん。やんちゃでやんちゃで、ひと時も目が離せないという。
大、中、小・・・と3人の子供の子育て。想像するだけで肩が凝ってくる。
思った通りに育ってくれない、行動してくれない子供にイライラして
怒っているのが日常。
「お母さん、たまには笑ってよ」、と子供に言われてしまうらしい。

「このぐらいの乳児のときの匂い、柔らかいからだ、肌さわりは忘れられないのよ」
その時の記憶を思い起こす時が幸せな時だという。
「だから、めいいっぱい、楽しんで抱っこしてあげてね」

そうだなあ。腕が多少痛かろうが、こんな風に自分の腕の中で
つぶらな瞳でじっと母を見るときは、ほんのひと時、今しかない。

大事、大事。
今のときを大事にしよう。
先人の言うこと、きっと間違いない。

2011年10月25日火曜日

42歳からの子育て・・・生後2か月と27日(めきめきと自我の目覚め)

生後3か月が近づいてきた。
1日1日はあっという間なのに、この3か月はとても長く感じる。
日々、いろいろな発見があるので、気づいたことメモをまとめて。

<赤ちゃんの変化>
●視野が格段に広がる
縦横、上下、かなりいろいろな角度からものを見ることができるように。
少し遠くにいる私の姿を負うことができるため、私が視野に入ると
泣き始める、、、という現象も!
散歩に出かけると、きまって、下から上を見上げる。
空、森林の木々や葉っぱが好きで、じーっとまなざしを変えず、見つめている。
名前の通り、森や樹木、緑が好きなようで、とてもうれしい。

●うんち頻繁
2か月半ごろまでは便秘気味で悩んでいた。(最長5日出なかったことも)
ところが、ある時から急に頻便?に(笑)
1日4~5回、それ以上、小刻みにうんちが出るようになり、紙おむつの消費スピードが
一気に速まっている。想像するに、括約筋がしっかりしてきて、うんちを出すのが
上手になったこと、うんちが出ると気持ちいいので、踏ん張る癖がついていること、、、では
なかろうか???
親は大変だけど、便秘よりはいいかな、と思っております。

●おっぱいタイムは1日8回ぐらい(たまに夜は4時間~5時間に1回)
2、3時間おきの授乳は変わらず。ただし、外出して疲れたときは、4、5時間まとめて
ぐっすり寝てしまい、起きないことが発生。
すると、私のおっぱいがカチンカチン、岩のように硬くなり、慌てて起こして授乳する。
最近はおっぱいを吸う力が強くなり、上手に飲めるようになってきた。

なお、ミルクは外出時、どうしても泣きやまない車の中などであげる以外は
補充しなくても母乳だけで大丈夫になってきた。
ミルクあげる場合でも、補充量は、1日100~200ml。
やはり、母乳マッサージの威力大。
あとは、食事を気をつけて、ご飯食+野菜、豆類中心に、糖類や肉は避ける、が
功を奏しているかもしれません。

●眠い時は、おっぱい無しでは眠れない。
これは以前からの現象。とにかく、眠い時にぐずるのが一番大変。
とはいっても、おっぱいさえ飲めればすやすや。
父親だけの時は、何をしても泣きやまないため、「俺は無力だ・・・」と落ちこむ(笑)

●機嫌が良いと、よく笑う。
朝は一番機嫌が良く、いきなり目覚めた途端、笑っていることも。
赤ちゃんの顔を見て、笑いかけたり、顔や体をなでてあげると、とても喜び、
大きな口をあげて笑う。
前日に泣き叫ばれた父親は、朝の屈託のない笑顔を見ると、
すべてを忘れて、「かわいいなー。かわいいなー」と撫でまわしております。

母親の顔を見ると一番安心するようですね。
おっぱい飲む前に、私の目をじっと見て、笑うことがあって、
こりゃ、すごい意識がしっかりできてるな!と驚きました。

お腹がいっぱいでも、抱っこしてもらいたいとき、私が視野に入ると泣きます。
誰がそばにいるかで、態度を多少変えるような感があり。
だんだん、自我が強く出てきたかな。

●体重6キロを超過。ずっしり重く・・・。
おおよそ、生まれた時の2倍ぐらいになったようです。
腱鞘炎がつらくなり、ついに、ベビービヨルンの抱っこひもを購入。
これでかなり抱っこが快適になりました。

●髪の毛、相変わらず薄い。
いつかは生えると信じて、心配しておりませんが・・・。

<母親の変化>
●抜け毛は相変わらず。
カルシウム不足?ホルモンのいたづらでしょう。
いくらぐらい栄養補充すればよいのかなあ。

●腱鞘炎、指のこわばり
相変わらずではありますが、抱っこひも購入後は、少し緩和された感あり。
定期的にマッサージ・整体にてメンテナンスをして乗り切ろうかと。
10/20(木)にいよいよつらくなり、かかりつけの大久保「丹羽クリニック」にて整体。
指のこわばりは、リュウマチではなく、手首がやられているから、とのこと。
かなり丁寧に整体、調整してもらい、楽になりました。
and漢方薬コタロー41番をきちんと飲むようにと。

●おっぱい、アンバランス
左のおっぱいの分泌が良く、どんどん大きくなり、右とは明らかにアンバランス。
分泌がよいので、詰まりやすくもあり、3時間以上授乳があくと、まず左のおっぱいが
岩のように硬く、カチンカチンになります。
桶谷式母乳指導の先生には、「だいたい、みんなどっちかが大きくなっちゃうのよね」と。
振り返るに、出産後すぐは、右のおっぱいしかうまく授乳できず、左の苦手意識と闘い、
日々格闘していたのでありました。

<おまけ>
今日から夫がタイ・バンコク出張に。5日間いないため、1人で赤ちゃんと対峙するのは大変と
新兵器を投入しました。お母さん仲間から薦められた、バウンサー。
「最初は、バウンサーって何???」よく知りませんでした。
店頭でいろいろ試した結果、抱っこひもと同じメーカーのベビービョルンに。
自力で揺れるよう、赤ちゃんが学んでいくように作られているところが気に入りました。
また、国産メーカーのものと違って、圧倒的にデザインと色づかいのセンスが良い。
どーしてこうなんでしょうね。パンフレットの出来もすばらしい、fromスウェーデンです。

スウェーデンの小児科医も推奨、とか、人間工学に基づき、赤ちゃんの頭から足までを
まっすぐに保つように設計されています、とか。能書きが上手。

そして、写真を見ると、大成功!大喜びのみきお・・・!
なのですが、、、、実は、まだ自力で揺らす力が無いらしく、上手に揺れないため
あたしが手で揺らしてます(苦笑)

学べよ、みきお。

2011年10月18日火曜日

42歳からの子育て・・・2か月と20日(腱鞘炎?リュウマチ?)


ひたすら抱っこと授乳の日々続く・・・。
みんな、痛くなるんだよなあ。肩、首、腕、そして指!

生後2か月半が過ぎ、おっぱいを飲むのはとても上手になってきた。
そして私もマッサージの効果もあり、母乳の出が良くなってきた。
・・・しかし、3時間おきの母乳が毎日続いているおかげで、全身バキバキである。

特に、朝起きた時の、両手の指のこわばり。
私は30歳の頃、仕事上、パソコンの使用過多で、ひどい腱鞘炎になり、
治癒に3年かかった前歴がある。
夫イチロウも、仕事から帰宅すると、腕が痛い私の代わりに、みきおの抱っこ要望に
応えてくれており、だんだん、首、肩の痛みを訴え始めた。

中年夫婦、2人そろって、近所の接骨院に駆け込み、交代でマッサージたいむ!
肩も腕も痛いけど、それにもまして、指が痛くて思うように開かない。
「これって、リュウマチですかね?」と、思わず、接骨院の先生にたずねてしまった。
まあ、産後の、育児に慣れていないお母さんは、たいてい腱鞘炎になるらしいし、
ホルモンの影響もあるようだ。

そんなわけで、パソコンにもなかなか向かえない。

みきお、は生後2カ月半をすぎ、どんどん新しい刺激を求めるようになってきた。
一日中、家の中にいると、機嫌が悪くなる。
「ぼくは新しい世界が見たいんだ!」と顔が言っている。
ベットサイドのメリー(ぐるぐる回るおもちゃ)も、1回は喜ぶが、2回目以降は泣く。
飽きるらしい。

・・・てなわけで、なるべく、天気の良い日は、裏山を経由して野津田公園の散歩にいく。
抱っこひもにいれてね。
家を出て、歩き出し、多くの木々の中に入ると、嬉しそうに空や大きな木を見上げ、
鳥の声や虫の鳴声にじーっと聞き入るような表情をする。
この時間、大事だなあ、と思う。

しばらく歩くと、すーすーと寝入る。
風の音を聞きながら、木々の葉の揺れる音の気持ち良さに、私まで眠くなる。

なんとかね、こうして私も散歩をしながら、身体をほぐさないと。
有能な、首が、腕が痛くならない抱っこひも、そして授乳体制の改善に取り組むべし、だな。

2011年10月6日木曜日

42歳からの子育て・・・生後2か月と8日(町田市からの助産師さん来訪)

<丸くなって眠るのが好き>

今日の来客は町田市から派遣されてきてくれた、助産師さん。植草さん。

「産後のお母さん宅を、一軒一軒訪問してくれるとは、なんて親切!」と言うと
「そういって、喜んでいただけるとこちらも嬉しいです」と。
断られることもあるらしい。わたしは一人でちゃんとやっていくから大丈夫などと。

しかし、実際には、お母さんの3割がメンタルでまいっているらしい。
産後うつ、は深刻な問題。
それを早く見つけ出すためにも、このように訪問&相談してくれる、が重要なんだろう。

私の目下の悩みは、ひたすら授乳による腰痛、肩こり、腱鞘炎。
それ以外は、ある程度、寝不足も含め、もう慣れてきた。
家事はすっかり夫に甘えている。(ありがたい)

「男の子は特に甘えん坊ですから、とにかく3歳までは、しっかり甘えさせてください」
「赤ちゃんは、今でもお母さんと一体化。だから、お母さんがそばにいないのは、
宇宙に一人、放り出されたような不安に陥るのよ」と。
乳児のとき、母親との信頼関係をしっかり築くことが、3歳以降の自立につながるとのこと。
そういえば、出産した病院の小児科先生も同じようなアドバイスをくれた。
今はしっかりと、泣いたら抱きしめてあげて、おっぱいを好きなだけあげることが大事と。

「昔は泣いてすぐ抱くなんて、抱き癖がつくから駄目!という時代だったわよ」
母はスポック博士の育児書が全盛の時代。母乳よりミルクが良い、の時代。
時が変われば、育児の方針も全く逆になるのだから、恐ろしい。

というわけで、腱鞘炎はつらいが、とにかく抱っこ&おっぱいが一番なのだと改めて教わり、
将来、大きくなって、自立できないひ弱な息子にしないためにも、
今はたっぷりの愛情、甘えさせる時。
ぴったり肌をつけて、一体化の時代を過ごす時。

町田市の助産師さん来訪、非常にありがたかった。
明るく、いろいろな相談にのってくれた。
生まれて初めて、行政のお世話になったなあ、これは必要な仕事だなあ、という実感を
ひしひし感じた今日でありました。

42歳からの子育て・・・生後2か月と8日(ついに天使の笑顔が・・・)

<大きな古木の前で>

なかなかパソコンに向かえなかったので、先週末の出来事を。
10/1(土)朝。数日前にべビザラスで購入した、「メリー」を試したところ、
ものすごい真剣なまなざしで見つめて、そして本物の笑顔を見せ、
「うーうー!あーあ!」と、大喜び、歓喜の声をあげた。
20分間、クラシック音楽をバックに、カラフルな動物のぬいぐるみがくるくる回る。
さすがだなあ!相当に研究されたおもちゃなんだろう、こんなにも、まんまと喜ぶとは・・・。

アメリカの玩具メーカーらしく、同封の解説書がよーくできている。
乳児の発達ステップの説明とその時期に必要な、最適なおもちゃの特徴が書かれている。
やんわりと。上手に。こんなおもちゃが赤ちゃんの発育を促進しますよ、、、と、解説書の
そこここに、販売促進のツボ、が埋め込まれているのだ。

ついに、”反射”ではなく、本物の意志ある笑顔がみきおにやってきた。
まさに、天使の笑顔! 
なんてかわいい笑顔なのだろう。
この笑顔をふりまかれたら、どんなに睡眠不足でも、体中ががちがちに筋肉痛でも、
そんな疲れ、一気に吹っ飛んでしまうのが母親なのだ。

毎朝、このメリーで刺激を受けているせいか、日に日に、表情が豊かになっている気がする。
私だけでなく、新しい客人が来たりすると、顔をじーっと見つめ、天使の笑顔を振りまくように。
・・・この笑顔には、夫イチロウもめろめろである。かわいいかわいい、と撫でまわす。

10/1同日。とてもいい天気。秋晴れ。
絶好の散歩日和のため。裏の野津田公園を初めて3人で散歩にいく。
東京都とは思えないような、自然の樹木がたくさんの、豊かな公園。
引っ越して以来、妊婦になってからも、毎日のように歩き続けた、お気に入りの公園。
こうして赤ちゃんが生まれ、3人で歩く日が来るとは・・。
温かい陽の光を受け、木々の中で幸せを噛みしめた。

樹和(みきお)の由来は、この豊かな木々、自然。そして平和な世界。
まさに、ここが”樹和”ワールド。

2か月あまりの育児の疲れが、この木々の緑の中、ゆっくりと溶け出して
新鮮なエネルギーを補充できたようだ。

肝心の樹和(みきお)、は、ずっと、父の腕の中で夢の中であった。
これからは紅葉の季節。日々の楽しみが身近にあることはすばらしい。
天使の笑顔と自然に囲まれた幸せな週末だった。

2011年9月29日木曜日

42歳からの子育て・・・生後2カ月(夫も子もへとへとの巻)

<小指たてて寝る癖あり>

東京に戻り早10日。落ち着いてパソコンに向かうことがかなわぬ日々が続いた。
今夜はいつになく静か。
夫もみきおも爆睡中。
二人が寝入ってから3時間が経過しようとしている。

今日は夕方からしばし、夫とみきお、二人留守番を初体験した。
私が産後から調子が悪くて困っていた歯の治療に通うため。

おっぱいをしっかり飲ませ、
「では、いってきまーす!」と出かけたのが17:30。
ややしばらくして、みきおは泣き始めたらしい。
それから私が帰宅する寸前の19:00過ぎまで、
延々と1時間半あまり、ひたすら泣き続けた。
その間、夫はミルクを100ml与えたが、あっという間に飲み干し、
また泣き叫び始めてしまい、とにかく、抱っこしても、おしゃぶりをあげても
何をしても、全くなすすべなく、最後にはぜーぜー、喉が枯れるまで泣き続けたと。
その後、ミルクをさらに100ml飲ませたが、泣きすぎて、喉が渇いたせいか、
これまた一気に飲んでしまい、涙が乾かぬうち、再び大泣き。

「すごいよ。みきお。こいつはかなり頑固だ。」
約1時間半も泣き続けたみきお、ついに泣き疲れて夫の腕の中で寝ていた。
「おれは、もうずっと抱っこしていたけど、全くきかなかった。おれはもう疲れたー!」
「ごめんねー。イチロウ・・・」
「かわいそうなのはみきおだよ。窒息するかと思ったよ」
「・・・」


窒息するかもしれないからタクシーで帰ってきて、との夫の電話を受け、
急いで家に戻り、夫の腕の中で寝ているみきおの顔は
全力疾走1時間半っていうぐらいの、疲れ切っってぐったりの表情、
そして、ぐにゃぐにゃの全身。

1時間半の歯医者で留守にした今日、みきおはちょうど生後2ヶ月。
おっぱいを求めてひたすら1時間半、大泣きするほど、すこぶる元気、ともいえる。
そして、いくらミルクを飲まされても、寝る間際には、どうしても、おっぱい。
母親の私を求めている、というよりは、とにかく、おっぱいに吸いつかなくちゃあ
眠れないんだ、という赤ちゃんど真ん中、の甘えん坊、なのでありました。

夫も抱き疲れて、夕食も食べずにバタンキュー。
みきおの隣でへとへとの顔で熟睡しております。

赤ちゃんの生きるエネルギーに、中年夫婦はオロオロの日々、続きます。

2011年9月21日水曜日

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と24日(身体の変化その2)

<お祝いに頂いたお人形と>
1か月半を過ぎ、生後2カ月近くなった最近の身体の変化。
ほんとは、日々いろいろな変化があるのだが、まとめて。

<赤ちゃんの変化>
■体重・母乳
1か月検診:3940g
その2週間後:約4400kg(家の体重計、100g単位しか測れず)

2週間で約560g(1日40g)
桶谷式の石田先生には、いいんじゃない?大丈夫よ。と言われた。
母乳中心の場合、体重は、ゆるやかに増えるそうだ。

桶谷式の母乳マッサージ以来、ミルク補充は1日80~160mlぐらいに減っている。
なるべくおっぱい刺激を増やし、3か月ぐらいのときには、母乳だけ体制を目指そう。

■まつ毛が生えてきた。
・しかし、眉毛はまだとても薄い。そして髪の毛もまだまだ薄い。

■顔の乳児湿疹が消えてきた。
・油脂の分泌が少し減ってきた模様。石鹸洗顔の効果もあったのだろう。
すべすべお肌が戻ってきた。あー良かったね。

■視力がはっきり。
・人の顔・目をしっかり見ることができるようになってきた。
お人形やおもちゃ類にもしっかり食らいつく。
特に、初めての人に抱かれたときなどは、じーっとその人の顔を見つめている。
これから、みきおの好き嫌いも出てくるのだろうか?
いまのところ、人見知りはしていない模様。

■うんち詰まり気味→綿棒浣腸に成功!
ここ1週間ぐらいは、2日ぐらいウンチが出ない。
しかし、苦しい様子はないので、便秘だ!大変!とは慌ててはいない。
つい数日前は、病院で薦められた”綿棒浣腸”にトライしてみた。
綿棒にオリーブオイルをたっぷりつけて、お尻の穴の中に入れ、ぐにゅぐにゅと刺激。
「けっこう、しっかり綿棒を回してみてください」と助産師さんに言われたっけ。
そのうち、みきおの顔が紅潮してきた。
そして、ついに、用意していたお尻の下に敷いた新聞紙の上に、少し硬めのウンチが
うにょりうにょり、、、と大量に出てきた。

「やったー。みきお。うんちが出たねー。良かったねえ」
濡れティッシュで、その大量のウンチを拭く。お尻の周りにも及んでいたウンチをきれいにして、
そして、お尻の穴の中心をしっかりと拭き終えようとした、そのとたんに、
どばーっ!!!!!と、第二弾の、今度は柔らかめのウンチがさらに大量に出てきたのだ。
避難するすきがなく、私の右手には、みきおの第二弾のウンチがべっとりつきました。
しかし、私は二日ぶりに出たうんちに嬉しくて、そんなことにはもろともせずに、
「やったー。みきお。またうんちが出たね!たくさんたくさん出たねー。
良かったねえ。すっきりしたねえ。あー気持ちよかったねえ」

”大量のウンチ”、といったって、まだ生後1か月半ですから。
かわいいものです。嬉しいものです。
ああ、これは効果があるなあ、綿棒浣腸、と思いました。
そして、毎日毎日、おしっこの度、うんちの度にオムツを替え続けるのがお母さんの仕事。
わが子のおしっこ、うんちが手にかかったことが一度も無い、、などというお母さんは、
恐らく、この世にいないでしょう。
これがわが子というものだなあと。うんちぐらい、手にひっかけられても、もろともしない。
むしろ嬉しいものなのだ、と。

<母親の変化>
■体重
59kg~60kg(妊娠前は57kg、臨月は67kg)

妊娠前から+2~3kg
桶谷式の先生には、これ以上減らさないようにと、母乳のためにも、育児のためにも
体力を使うので、痩せないようにしなさいね、と指導された。
確かに、食べても食べても太らない。
高校の部活動のころ(16歳~18歳)以来の大食漢になっております。

■抜け毛は相変わらず。
しかし、増えてるわけではない。
これからシャンプーを変えます。

■歯のかみ合わせがおかしい。
ここ2週間ほど、気になり始めた。
下顎が出っ張ってきたのか?
噛み合わせが浅くなり、食べ物を噛むときに、上の前歯と下の前歯が当たるのだ。
私は幼少期に噛みあわせが反対で下の顎が出ていたため、矯正をして治した経緯がある。
出産のせいで骨盤が歪んだりして、また下の顎が出っ張ってきたのか?

さっそく歯医者に行ったものの、出産のせいで噛みあわせがおかしくなることは考えにくいという。
上の奥歯の親知らずが出てきたせいかもしれない。ならば、抜くか?
ちょと場所的にも角度的にも、かなり抜きずらそうだ。
いま、この授乳格闘中に歯が痛くなるのは、正直いってしんどい。
少し様子を見ることに・・・。

■腱鞘炎
相変わらず、腰、腕、肩も痛い。
腕と手、指の酷使が続いていること。
おっぱいのあげ方指導により、左手で赤ちゃんの頭を支え、右手でおっぱいを下から支えるため
特に、右手と指がつっぱるように痛い。
慣れるしかないのでしょう。
あまり、パソコンや携帯なども、多用しないほうがよいんだろうなと。


夜中のおっぱいにも慣れた。
わが子がお腹をすかせて、泣きながら、おっぱいに吸いつく姿は
本当にかわいい。愛おしい。
自分の体内にある栄養素が直接的に子供の身体に入ると思い、
妊婦のとき以上に食べるものに神経質になっている。
母乳、ミルクだけが乳児の成長の糧なのだ。

お母さん仲間は、”その頃に戻りたいよ、懐かしいよ”と言ってくれる。
後から振り返ると、授乳をしていた時期が一番良かった、幸せ実感した、と思うのかもしれない。
大切に過ごそう。おっぱい活動。

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と24日(カムバック東京)

<父の腕に抱かれて>
私の故郷は札幌。
高校卒業後、大学進学のため東京に来て、仕事を始め、約25年あまり。
思いがけず、赤ちゃんを授かったおかげで、久しぶりに札幌生活を楽しんだ。
6月末から約3カ月。妊婦中は毎日懐かしい場所を歩きまわった。
母校の札幌南高校の通学路、豊平川、中島公園。
そして、幼少期から通い詰めた月寒公園。
街の中心部、すすきのや大通り公園は、学校帰りや塾帰りに友人たちとよく出かけた
思い出の場所。でも、パルコとか大きなショッピングビルの店はすっかり様変わりしていた。

樹和(みきお)も生後1か月を過ぎ、私の身体もようやく復調した。
いよいよ夫の待つ東京・町田に戻ることに。

いつも思うんだけど、帰省するときは、「札幌に帰る」と言い、
また、東京に戻るときにも、「東京に帰る」と言う。
私の故郷はずっと札幌で変わらないが、いまや東京にも戻る場所、自分の住処・家族がいる。
やはり、カムバック東京!なのだ。

9月18日(日)札幌は肌寒く、曇り空。
いよいよ、という別れ際に、迎えにきてくれた夫イチロウに両親と樹和、私の記念撮影を頼む。
母は「さびしくなるわね。みきおくんの泣き声が聞こえなくなるのは・・・」と。
生後直後から、約1ヶ月半。日々成長する孫の姿をそばでみたのは初めてだったから、と母。
産前産後の家事ほとんどすべて、そして産後のみきおの育児のサポートまで、
すっかり甘えてきた。これから、私とイチロウが仲良く大切に育てること。
大きく元気に育った孫の笑顔を見せることを母への恩返しとしよう。
父はいつもの通り穏やかな笑顔で、玄関の外で見えなくなるまで手を降ってくれた。

東京までの(赤ちゃんにとっての)長い道中、多少の不安はあった。
公共の交通機関に乗るのは初体験だった。
結果、空港までの車中も、ずっとおっぱい。
空港では一瞬、すやすやモードだったけれど、飛行機に入った直後は起きてしまい、
またまたずっとおっぱい。
授乳ケープ、大変に役にたちました。

とにかく、夫も非常に心配していたのが、飛行機の離陸・着陸時の高低差。
小児科の先生からは、赤ちゃんは自力では耳抜きできないので、おっぱいかミルクを飲ませて、と指導されてきた。結果的には、ずっとおっぱいを飲み続けていたので(ただくわえてただけの時間もあったけど)、肝心の離陸時にも、着陸時にも、問題なく、泣きだすことなく、無事に過ごせた。

ところが、「あー、よかったよかった。よく頑張ったねー!みきお」と言いながら、飛行機を降り、
授乳室でオムツを替え、到着ロビーに向かう途中、急に、ぎゃんぎゃんと泣き始めてしまった。
夫イチロウは抱っこしながらおろおろ・・・。

でも、そりゃあ無理もないと思った。
初めての電車、飛行機と乗り継ぎ、降り立った羽田空港は、大勢の人、聞きなれない音楽、雑音、
飛行機の離発着のナレーションの声など、そりゃあ、1か月半の赤ちゃんにしては、いままでになく
とんでもなく騒がしい環境に飛びこんでしまったことになる。
近くのバーカウンターでお湯をもらい、多めにミルクを作った。
急いでバスに乗り、10分ほど揺られ、駐車場につき、車中のベビーチェアに座らせる。
そして、ミルクを飲むことによって、ようやく落ち着いた。

ミルクを飲み終わり、最初は良かった。
大都会の景色、見慣れぬどんよりした空、そして北国から一転して亜熱帯東京の湿気、熱気・・・。
1ヶ月半の赤ちゃんの脳みそに、どーっと、信じられないくらい大量の刺激が与えられてるんだなあ。
目を見開いて、くるくるさせながら、外を見つめている。
(ココ、ドコナンダ?ナニ?ナニ?)

15分くらいしたら、飽きてしまったのか、疲れてしまったのか、大泣きが再び寄せてきた。
車中での抱っこは危険。とにかく、ベビーチェアに縛り付ける。
泣いてもわめいてもそれだけはきまり。
みきおにはここは耐えてもらうしかないねと、夫も私も、ひたすら声をかけるしかなかった。
「みきお、もうすぐお家につくからね。あと30分ぐらいだからね。がんばれーみきお」

通じるとも思えないけど、声をかけるしかない。
夫にいたっては、こと細かく、説明をしだした。
「みきお、あと10分でつくよ。いま渋滞にはまってしまったからね。しかしこの角をぬければ、
そのあとはスムーズにいくからね。みきお、わかってるよね。あと少しだからね」
わかるはずはない。つらいのは変わらないのだから、ひたすら、ぎゃんぎゃん泣き叫ぶ。

「しかし、いい運動だよね。これもね」と納得するように、わたし。
「みきお、元気だよ、こんだけ泣き叫んでも疲れないんだから、えらいえらい!」と夫。

ようやく町田のはずれの自宅についた。
カムバック東京!
私も3ヶ月半ぶりに我が家に戻れて嬉しかった。
急いで、みきおにおっぱいをあげる。
泣き疲れても、まだなお、必死におっぱいにかぶりつく、元気なみきお。

「ここがみきおのお家なんだよ!」と、抱っこしながらみきおに語りかけた。
おっぱい後、元気になったみきおは、初めての部屋、壁、窓の外の風景などを
きょろきょろと見まわす。何度も何度も。新たな刺激に脳みそのシナプスが弾けているようだ。

みきおにとっては、ここが故郷。
出産の地は札幌ではあるけど、でも、君のホームタウンは東京・町田になる。
変な話だけど、この子の命が誕生したのは、まさにこの自宅の2階の寝室なんだ。
寝室にあがり、3人でベットに寝そべった。

疲れた。そして、なんて蒸し暑い東京。
でも、やっと3人生活がスタートする。
私にとっても、ここが第二のホームタウン。
札幌の街の素晴らしさ、過ごしやすさは何ものにも変え難い。
故郷の実家の心地よさは一生もの。
でも、ここが私たち3人の、みきおと一緒の新しい生活の場。
カムバック東京だ。

さてと、、、始まる。

2011年9月14日水曜日

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と16日(お母さん仲間からの泣ける手紙)

<ひとり遊びができるように>
出産後、いろんな方からお祝いの言葉をいただいた。
43歳まじかの高齢初産だったせいもあり、
「ほんとに母子共に健康でよかったねー」、とねぎらっていただくと本当に心から嬉しく、
ありがたい気持でいっぱいになる。

そして、子育てスタートし、おっぱい活動の大変さ、悩みなどをfacebookやブログで
つぶやくようになると、思わぬ人から、久しぶりに連絡が来たりした。
私が、生後1ヶ月ぐらいまでは、寝不足と授乳疲れもあり、ちょっとしたマタニティブルーになり、
実家の母にかなり八つ当たりしてしまった、との反省文を書いた時には、
卒業以来会っていない、大学時代の同級生から、
「私なんか今でもそう。母親に子育てをすっかり任せているのに、失敗すると怒ったりして
ひどいことしてる・・・」とのコメント。なんだか、この20年の時を一気に飛び越え、母親同盟を
組めたようで、気持がなごんだ。
「あーみんな一緒なんだな」と思えて、気が休まった。

また、仕事で知り合ったある女性からは、心のこもった長い手紙をもらった。
私の出産のお祝いの言葉があり、そして自身の出産・育児経験について、
つらい流産の経験、そして、出産時にも思わぬトラブルが発生し、急遽の帝王切開手術。
仮死状態での出産だったようで、産後もずっと不安な時を過ごしたとのこと。
今はすっかり元気に育った我が子の子育てに奮闘し、かけがえのない時間を過ごしていること。
そして、その時間を私と共有できて嬉しく思ってる、と。
私が仕事ばかりしていた姿を彼女はよく知っている。
仕事を辞めたと聞いて、え???とかなり驚いた、と書いてあった。

かわいい我が子との宝物のようなこの時を、他の人に共感してもらえるって素晴らしい。
とても幸せなことだなあ、と思った。
私も、自分の心の中でいつも反芻している言葉を、外に向けて発せられることが嬉しかった。
自分の命より大切なものができた。
どんなに寝不足がつらくても、子供のすやすやの寝顔をずっとずっと眺めていられる。

私が20年の仕事一色の生活をやめ、一転して子育て一色の生活になったおかげで
彼女との心の距離が一気に近くなった。
子供を持ったことの思いがけない副産物だ。

いやあ、本当に。
じわじわとした感動が身体を駆け回る感じ。
育児に忙しい中、わざわざ直筆でメッセージをくれたことにも心を打たれた。
泣ける手紙。
これからの育児の励みに!

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と16日(「桶谷式母乳育児」に習う・・・その2)

9月13日。二回目の桶谷式母乳教室へ。
前回、初めてのマッサージ&指導後は、赤ちゃんの飲み方が深くなったようで、ミルク補充が
かなり少なくなってきた。前日9月12日は、1回40mlのみ補充。
退院後、母乳だけでは足りない感があり、1日300mlは補充していた。一気にミルクをやめると赤ちゃんの発育が鈍るのでは?と多少の不安があり、なかなかやめられない。

前回、石田先生からは、「もし、母乳後、赤ちゃんが足りないような反応をしたら、すぐミルクを足していいですからね。1日200ml以内にしてみましょうか」とのアドバイスあり。
毎回必ず補充するのはやめ、赤ちゃんの反応を見て、満足してるようなら補充しないように変えた。

そんなわけで、1日1回補充にまで減らすことができたのは嬉しかった。

2回目のマッサージは前回よりは痛くない。
そして、相変わらず、母乳を噴水のように放出してくれた。
「ちょっと冷たい母乳が残ってるわね」と先生。
「それって、古い母乳ということですか?残ってる母乳は絞った方がよいのでしょうか?」と私。
「いや、あなたの場合は搾乳はしなくていいわ。なるべく頻繁に時間をあけず、授乳してね」と先生。

母乳飛び散るなか、てきぱきと指導してくれる。
豆乳はいいのか?牛乳と同じで1日200mlまでならOK・・・などなど、食事に関する疑問も解決。
「なるべく、暖かい飲み物を飲むようにね」とのこと。
身体を冷やさない方がいいのは、妊娠中も一緒。妊娠したい人への注意事項でもある。
やはり、身体は暖めるといろいろ良いことがあるのだな。

次回、木曜に札幌でのラスト母乳マッサージ。
その時、東京の良い先生を紹介してもらうことに。

さて、私のマッサージ後に、急患が来た。
乳腺炎で高熱にうなされ、数日苦しんだ様子のお母さん。
赤ちゃんはちょうど生後二ヶ月。おばあちゃんが付き添いしてきた。
熱のため朦朧として、しかもおっぱいが痛いらしく、母乳マッサージ中も、かなりつらそうだった。

先生は、優しく、丁寧に、今までの経過やかかりつけの病院での対応などを聞き取り、
「大変だったね。がんばったね。どうしようか、今日は専門の病院にこれから行くかい?」
などと、細やかにフォローしている。

乳腺炎になる要因はいろいろあるらしいが、とにかく、あのお母さんのつらそうな様子、
消耗してる様子を見てたら、こっちまで痛くなりそうだった。
痛いだけでなく、精神的に、かなり参っているようだった。
マッサージ後半になり、先生はまさにカウンセラーのようにお母さんの心の中を聞き取り
「つらかったね。泣きたいかい?泣いていいんだよ。産後はみんなそうだからね。いいんだよ」
一緒に泣いてあげるような口調で、慰めつつ、彼女の疲れ切った心身をほぐしてあげていた。

マッサージを受けながら、涙を流し、つらかったこの数日を先生に打ち明けるお母さん。
こういうことを言える場所が欲しかったんだなあ、このお母さん、と思った。
痛いのもつらいし、赤ちゃんの世話もしなくちゃいけないし、高熱で動けないし、
旦那さんはなかなか帰ってこないのか?
・・・1人で文字どおり、悶々と、格闘していたようだ。

乳腺炎・・・。相当に、つらいんだなあ。
気をつけなくちゃ。
しかし、気持はわかる。授乳の日々は、楽しいけど、うまくいかないこと多く、
いちいち、気になる、気に病む。
帰り際に、がんばってくださいね!と、小声で声をかけ、診察室を後にした。
心のケアも含め、普通の病院ではできない、細かな対応がここの魅力なのだろうな。

もっと母乳について勉強をせねば・・・!と思い、先生の本棚の中から
「桶谷式 母乳で育てる本」を借りる。
まだ1ヶ月半だもの。
まだまだ、長い授乳生活。学びを続けよう。

いやあ、しかし、母乳マッサージの威力はすごいです。
なんか、どんどん赤ちゃんのおっぱいの飲みっぷりが良くなってきました。
ありがたや。

2011年9月9日金曜日

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と12日(おっぱいのプロ「桶谷式母乳育児」に習う)

<石田先生からいただいたタンポポコーヒー>

以前から義妹に勧められていた”桶谷式”
樹和のおっぱい満足度が下がってる気がしてきたので、
昨日、急遽、駆け込んできた。

東札幌にある、「石田母乳育児相談室」
先生は助産師の資格も持ってる石田美由紀さん。
電話での対応から、ベテラン、おっぱいのプロな感じが伝わってきていた。
「助産師の研修生が来てますけど、いいでしょうか?」とのこと。

タオル3本と母子手帳を持参し、開業されている石田さんの自宅にむかった。
3人の助産師の研修生が立ち会う中、1人のお母さんのおっぱいマッサージ中。
初診なので、カルテを記入し、樹和をあやしながら待つ。

順番が来た。
診察台に横になり、質疑応答の中、ぐいぐいとおっぱいマッサージが始まる。
たまに「いたたた!」という瞬間もあるが、我慢できる痛さ。
とにかく、おっぱいわしづかみにして、下から横から、どんどんもみほぐしてくれる。

「乳質は悪くないからね。悪いものは食べてないよね。
もっと柔らかくなれば、底の方からおっぱい出るよ」
触っただけで、おっぱいの質がわかるらしい。
乳首もぐいぐい・・・。

そうすると、あれれー???と、
驚くほど、おっぱいが飛び出てくるのだ。まさにおっぱいの噴水!!
私の胸に残っていた残乳が、石田先生のもみほぐしにより、どんどん吹き上がる。
先生の眼鏡には、わたしのおっぱいの水滴ががんがんかかっていく。
先生はもろともせず、マッサージを続けながら、歯切れ良く、母乳指導をしてくれた。

・体重は減らさないように気をつけて。
 (妊婦への体重制限が厳しいことに疑問をもっているようだった)
 ご飯は必ず2膳食べなさい。

・悪いものは食べてないようだから、あまり厳しく食事制限しないけど、
 パン、麺類よりも、ご飯を食べること。
 お肉はたくさん食べるのは良くない。ジンギスカン!とか焼き肉!とかは控える。
 果物は、柑橘類、メロンは乳質を下げるとのこと。リンゴ、なし、ぶどう類はok。
 バナナは詰まるからNG(わたし、毎日食べていた・・・)
 
・授乳はだらだら続けず、左右のおっぱいを5分ずつ、体制を変えて合計4パターン。
 30分で切り上げる。その後、もし足りないようならミルクを補充。
 
そして、最後にがーん!ときた。
「添い乳はだめよ!赤ちゃんが飲みにくいし、おっぱいにも良くない。
ちゃんと起きて座ってあげなさいね。」
最近、夜中はこの”添い乳”に救われていたのに・・・。
母体には格段に楽な体制なのだが・・・。

「添い乳は、お母さんが具合悪くて起きあがれないとき、産後すぐの体調がひどい時だけよ」
とのこと。おそるおそる、わたしも切り込んでみた。
「病院では夜の添い乳を勧められたんですが・・・」と言うと
「まったく、今の病院はどうなってるのかしらねー!おっぱいマッサージもしないで、
そんな指導をして・・・」とあきれ顔。

とにかく、かなり授乳方法に改善の余地有り!でありました。

しかし、マッサージ後の私の乳房、乳首は驚くほどに柔らかくなっており、
ちょっとこれはすごいぞ、と思った。
そして、樹和に授乳するところも見て下さり、吸わせ方が浅い!と言われ、
体制や、クッションの使い方、手の支え方などを細かく、ご指導いただく。
その合間にも、次から次へと、乳幼児を連れたお母さんがやってくる。

これはすばらしい!まさにおっぱいのプロだ!と感動。
通いつめるお母さん方が多いのも納得だ。
来週も2回、マッサージしてもらうことにした。

しかし、おっぱいの噴水には驚いた。
撮影して公開できないのが残念!
どんな世界にもプロがいるのだ。
人の命、赤ちゃんの健やかな成長を左右する、大事な大事な仕事だと思った。
桶谷式は全国にすごい数の指導員がいるらしいが、
助けられたお母さん、赤ちゃんの数も多いはずだ。
ああ、やってきてよかった。おっぱい指導。

最後に、「これ、母乳の出が良くなるわよ」と
西洋タンポポコーヒーのサンプルを下さった。
資料には、腎臓や肝臓の分泌促進、関節症の軽減、
そして母乳分泌促進、とある。

母乳研究、引き続きがんばるべし。

2011年9月7日水曜日

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と10日(乳児湿疹やら抜け毛やら・・・)

<北海道社会保険病院 1ヶ月検診にて>

生後1ヶ月を境に、赤ちゃんにも母親にもいろいろな変化が訪れる。
日々何かが起こるのだが、まめにパソコンに迎えないので、まとめて記録を。

<赤ちゃん>
■変化その1・・・食欲
3週間後ぐらいから、食欲が異常に高まってきた。
3時間おきの睡眠が、2時間、時には1時間半ぐらいで泣きじゃくり、
おっぱいを求めてがっつく。
助産師さんによると、まさに、3週間後ぐらいに、赤ちゃんの成長のピークがあるらしく、
「それが正常ですよー!」と、にこやかに言われた。

■変化その2・・・乳児湿疹
そして、生後1ヶ月過ぎくらいから、顔のほっぺた、あごのあたりに湿疹が出始めた。
つるつるのお肌の間に、ニキビのような赤いぽつぽつ。
「なんで-??」と思い悩み、ネットで「乳児湿疹 原因」を検索する。
生後1ヶ月ぐらいに、油脂分泌がピークになるらしく、よくあることと。
清潔にしておけば、そのうち治る、というコメントが大半。

ただ、急に増えたので、私の食事と関係あるのでは?と思い
「乳児湿疹 母乳」で再検索。
すると、やはり出た。
甘いもの、乳製品(牛乳、チーズ、ヨーグルト)、カレーライス、肉類などを食べ過ぎると
赤ちゃんが油脂を消化仕切れず、ほっぺたに湿疹が出るとのこと。
「ごめんね。みきお・・・」
母親の食べたものが、すぐさま赤ちゃんの身体に影響することを痛感。
確かに、ここのところ、おっぱい活動により常にお腹がすくので、食事の合間に
ヨーグルトやクッキー、牛乳をいつも以上に補給していた。

即日、食事改善。
乳製品はやめ。辛いもの、動物性タンパク質もなるべく控えるようにした。
赤ちゃんの湿疹を見てると、自分の思春期の頃に悩んだニキビを思い出し、
自分のこと以上に憂鬱になる。きれいな肌を取り戻したい!

赤ちゃんはおっぱい飲む時に口の周りにこぼしたり、顔中を自分の手でしょちゅう触るので
思ったよりべたべた状態。
入浴時にきちんと石けんでお顔を洗うと良いとの記述もあり、納得。
1日1回の石けん洗顔+朝晩はぬるま湯のガーゼで拭き、清潔に保つようにした。

以上を心がけた結果、だいたい1週間ほどで、かなり湿疹が消え、きれいになってきた。
赤ちゃんの新陳代謝は見た目よりも非常に活発。
おっぱいの度、お顔の湿疹の数も場所も変化する。
大人のかさかさ肌とはえらい違い。

■変化その3・・・視力
ここ最近、赤ちゃんと目線がきちんと合うようになってきた。
ちょうど1ヶ月少しすぎたあたりからだ。
今日は、ベビーベットの中にある熊のぬいぐるみを、しかと見つめ、
なんだろ?って顔をしていた。
起きている時間が少しずつ延びてることもあり、光のある明るい方向に
目を向け、じーっとにらんだり、眉間にしわを寄せる。
生まれたての視力。
目に映るものすべてが、初めまして!なのだから。


<わたし(母親)>
■変化その1・・・抜け毛
シャンプーの度に、なにやら毛が抜けるなあと思い始めたのが、生後2週間ぐらい。
その後、母乳が増えるにつれ、枕にも髪の毛がよく落ちており、あきらかに
”自分の身を削ってる”感が出てきた。
まあ、このくらいの抜け毛ならいいんだけど。
友人のお母さん仲間から、
「3ヶ月ぐらいから、抜け毛がどっさり増えるよー」と脅された。
ただでさえ、細くて少なめなのに。はげは嫌だなあ。はげは。

自分の身を削って赤ちゃんに栄養を上げる分、母親も相当に意識して
栄養補給せねばならない。母親の健康がすべての源だ。
母なる大地です。

■変化その2・・・筋肉痛
これはもう、おっぱい活動を初めてからすぐに始まった。
1ヶ月経ち、そろそろ力も抜け、慣れてきていい頃なんだけど
赤ちゃんがどんどん重くなるにつれ、抱っこ&おっぱい時の首、肩、腕の負荷が
増え続けているせいか。

元々、腰痛持ち、かつ、パソコン仕事のせいでひどい腱鞘炎をわずらったこともあり。
赤ちゃんの寝入った隙をみて、近くの鍼灸マッサージに通い、なんとか凌いでいる。
まだ体重4キロぐらいで軽い悲鳴。この後、1歳で10キロぐらいに増量するんだから
ちょと、筋トレ?せねばならんな。

※1ヶ月検診の時に、助産師さんになかなか寝ない!と悩みを打ち明けたところ
写真のように抱っこすることを勧められました。
子宮の中にいたときのように、小さく、くの字に身体を折り曲げると
赤ちゃん落ち着くそうです。

■変化その3・・・その他もろもろ
・体重は妊娠前からプラス1~2キロまで戻った。そして、おっぱい活動のため、
いくら食べても太らず。とにかくお腹がすき、のどが渇く。
小児科の先生曰く、
「お母さんは1日800カロリーぐらい奪われてるんですから、
お昼一食分以上、余計に食べないと、どんどんやせ細ります」とのこと。
お腹がすいたら、おにぎり、バナナをつまんだり、深夜に冷蔵庫の残り物をあさる。
成長期の子供のようです。

・帝王切開の傷跡はようやく痛みがなくなってきた。多少のひきつり感があるのみ。
1ヶ月検診後、お風呂も解禁。
横一文字の傷跡はけっこう大きいが、そのうち薄くなるのだろう。

おまけ。
妊娠線はおへそ付近から縦にしっかり残っている。
まあ、いまさらビキニの水着を着るわけじゃあるまいし。気にならない。

ブログというのは、日記のようなものだから、本当は日々のこと、日々書きたいのだけど
樹和(みきお)から離れて落ち着いてパソコンに毎日向かうことがなかなかできず。

でも、地元、町田市民病院のお母さん仲間から、
「ブログ見ましたよー。励みになりました」、とメールが入ったので、
私と同じように、赤ちゃんの発育の日々と格闘している仲間が見てくれると知り、
俄然、やる気が出てきた。
少しでも、がんばって更新しようと思う。

やはり、これ、実体験してる人同士にしか共有できない悩みなんだな。

2011年9月2日金曜日

42歳からの子育て・・・生後1ヶ月と5日(私にもマタニティブル-が・・・)

9月に入ったのに、珍しく札幌もまだ暑さが残る。
8月26日の一ヶ月検診のあとも、樹和(みきお)は日々、丸くなっていく。
睡眠時間の代わりに、おっぱいに吸い付く時間が長くなっている。
赤ちゃんの成長のスピードは驚くべきだ。

ところで、一ヶ月を振り返り、書き残しておきたいことが一つ。
出産関連本に必ず書いてある、マタニティブルーということば。
出産後にホルモンバランスが崩れ、なんだか落ち込んだりいらいらすることがあるとのこと。
ひどい場合は、産後うつにもなりかねないらしい。

精神的にはタフだと思っていたが、私にもマタニティブルーがあった。
出産後すぐ、母子同室になり、赤ちゃんへの授乳活動が始まり、
慣れないこともあり、極度の睡眠不足に。
身体がふらふらでも肉体的には落ちなかったが、メンタルには少し”キレテイタ”

どんな風にか。
ちょっとしたことにいらいら。
たとえば、母に2リットル入りのミネラルウォーターを頼んだところ
小さなハンディサイズのペットボトルを買ってきた時など。
普段なら笑ってすませること。なんてことないのに、なんとも我慢ならず、
「授乳中はすごくのどが渇くの。だから大きなボトルじゃないと間に合わないのに!」と
いらいら・・・。ひとしきり文句を言ったりした。

そのいらいらが、退院後も続いていた。
今となっては、母には詫びるしかない。
どうにもこうにも、小さな些細なことに我慢がならなくて、
いちいち、母にあたっていた。

ずっとぐずぐずむずかる樹和を必死にあやしていたところを
母が心配で、覗きにきてくれたのにも我慢がならず。
「近寄らないで!」と怒鳴ったりした。

母が「わたしもお兄ちゃんの赤ちゃんの時は大変だったわ」などと
育児に悪戦苦闘しているわたしを慰めるような言葉をかけてくれたりする。
それがどうにも気に入らない。
「黙ってて。おっぱいを上げてるときに、邪魔しないで!」

そんな日々が1ヶ月。
つい最近になって、この”いらいら”がなくなってきた。
すこしずつ、授乳活動になれてきたこともあるが、
これって、育児本にある”マタニティブルー”だったのかも・・・と思った。
きっと、ホルモンバランスが崩れていたのだ。
理性的になれない、いつもと違う自分だった。

うまく治らない場合、育児ノイローゼとか、産後うつ、などにもなりかねないのだろうか。
けっこう、怖いものだなと思う。
自分とは縁のないものだと思っていたが、”マタニティ-ブルー”
今は平静に戻れたからこそわかる。

あれは、マタニティブルーだった。

里帰りしてから、早2ヶ月過ぎ、母には家事全般、赤ちゃんのケアまで
甘えっぱなしの日々が続いている。
東京に戻る前に、きちんとお礼とお詫びをしないと。
私、あれはマタニティブルーだったのよ。ごめんね、と。

昨日9月1日は母の70回目の誕生日だった。
いつものことだが、心ばかりのプレゼントの花束。
オレンジ色のバラ、白いトルコ桔梗。
いつもありがとう。
そして、おめでとう!お母さんの思いをこめて。

2011年8月30日火曜日

42歳からの妊娠・出産・・・出産間近に。

7/26火曜日。
明日には入院。ラスト妊婦day。
カメラマンの夫に撮影してもらい、
臨月の撮り納めとしました。

バックのオブジェは、お馴染み安田侃。
at 札幌中島公園

2011年8月28日日曜日

42歳からの子育て・・・生後一ヶ月

8月28日(日)晴れ
今日で樹和(みきお)が生まれて一ヶ月が経った。
東京で離れて暮らしてる夫イチロウに「あっという間だったね!」とメールしたところ、
「オレにはものすごく長くかんじる」と返事。
そうだよね。

8月5日退院後の生活は、
おっぱい→寝る→泣く→おっぱい→寝る→泣く・・・。

これがひたすらに繰り返されている。
それ以外には、おしっこうんちのオムツ交換と、沐浴。
たまに、音楽を聴きながら、抱っこしておしゃべりをする。

つねづね、育児は体力だ、ということを聞いていたけど、
実際に自分が対峙してみると、体力というか、生活サイクルの大転換。
とにかく、赤ちゃん独自の世界、リズムにすべてを合わせて過ごすことになる。
2、3時間おきに泣き、おっぱいをあげる。深夜も含め、24時間体制なのだ。
8月半ばのお盆休み、4日間一緒に過ごしたイチロウは、
「なーは、みきおの奴隷だね」と言った。(”なー”とは、私の呼び名)

みきお様の泣き声とともに起き、おっぱいを差し上げる。
満足するまで、吸い続けるみきお。
その後はすやすやと寝付くまで、抱っこし続ける。
赤ちゃんにも男女の別が明確にあるらしく、
男の赤ちゃんの方が圧倒的に手がかかるらしい。
甘えん坊で、抱っこ好き。
いつまでもおっぱいをくちゅくちゅしていたい男の赤ちゃん。
生後すぐに、男子の特性、すでに主張していることは面白い。

母乳はだいぶ出てきた。が、十分ではないため、ミルクも混合。
ミルクの用意はすっかり母任せ。慢性的な睡眠不足のため、家事一切やらず、
実家にいる間は育児に専念させてもらい、私が母に甘えている。
それでも、この1ヶ月間。落ち着いてパソコンに向かう時間などとれなかった。

深夜2時、5時、、、と泣きぐずり、起こされ、
「はいはい、おっぱいだねー」と言いながら抱っこして、ソファに腰掛け授乳をする。
朝方、眠そうな私を見て、母は必ず「あー。昨夜も起きたの?ご苦労さま」とねぎらう。
食事の時間に、私はうまいぐあいに自由にならない。
寝かしつけた後、一人、食べることが多いのだけど、そんな時、父は言う。
「ちゃんと食べないと、栄養がとれないよ」
そりゃわかってるけど、今はだめなのだよ。こんなに全身ふるわせて泣き叫んで
おっぱいを求めている赤ちゃん、ほっとけないでしょう。

おっぱい活動のたび、東京にいる夫イチロウに、写真とメールで報告する。
深夜2時10分。「みきお泣き。おっぱいTIME!スタートしました」
深夜3時。「みきお、ようやく寝ました。あー食欲がかなり増進してるよ」
深夜5時。「みきお、起きちゃいました。おっぱいTIME!スタートです」
・・・こんなメールの繰り返しだから、またイチロウから返事が来た。

「みきおは神だ。しかし、なーがいないと、みきおは一日も生きられない。
ほ乳類ってそういうことなんだね」

私が奴隷なのか、みきおが神なのか。
生後すぐの赤ちゃんだけでなく、乳幼児を育てることは異空間だとつくづく思う。
今までの仕事人生・経験は何の役にも立たない。
世界中のお母さんはこうしてきたのか、と、感服し、そして
世界中の人はみな、こうして母親の身をけずる日々のおかげで大きくなったということ。
誰もがお母さんから生まれ、育ってきたということ。
このことに驚き、ただ感嘆する。

生後3週間目ぐらいからは、寝てる時間が少なくなり、ひどいときは1時間後に起き、
おっぱいを求めるようになってきた。身体が大きくなり、足ばたばたの力も強くなり、
泣き声もどんどん大きくなる。母乳とミルクの量が足りないのかな?
ミルクを増やした方がいいのかな?と心配になっていた。

8月26日(金)一ヶ月検診。北海道社会保険病院にいく。
出産タイミングが同じお母さん仲間と再会。
赤ちゃんがそれぞれに大きくなっていた。
そして、お母さんたち、みんな睡眠不足と闘い、おっぱいおっぱいの日々を語り合う。
あー、どこも一緒。たいへん、たいへん。

双子ちゃんのお母さんも来ていた。男の赤ちゃん、女の赤ちゃんの双子。
一人でもこんなに苦労。双子なんて信じられない、、。大丈夫?と聞くと、
意外とにこやかだった。
「うん。でも、男の子が手がかかるの。抱っこしてないと泣くの。
女の子はほっといても平気。たくましいよ」

検診結果。母子共に問題なく、順調だった。
みきおの体重は4キロ弱まで増え、身長も4cm弱、伸びた。
1ヶ月で1.2キロ増はすこし増えすぎ、ぐらいの感じらしく、
「このままミルクは増やさず、母乳を増やしていってくださいね」、と小児科の澤田先生。
「なんか、すぐ起きて、おっぱい欲しがるのですが、足りてないのでは?」と聞くと
「いえ、これだけ体重増えてるから十分すぎるぐらいですよ」と言われた。

「はあ・・・」
この時期の赤ちゃんの食欲増進のカーブはすごいらしく、一気にハングリーになる
タイミングなのだそう。引き続き、おっぱいおっぱいで頑張る、ということか。

乳首はすでに一度皮がむけ、ひりひりは通り越し、いくら強く吸われても
もう大丈夫、というか、我慢できる、慣れてきた。
3時間起きに授乳するリズムができてきてるせいか、3時間後には、自然に
乳首から母乳が漏れてくるのだからすごい。
赤ちゃんの泣き声に反応して、母乳がこぼれる、ということもあるらしい。

「わたしって、動物なんだなー」と。つくづく感じる、この1ヶ月。
こんな万年の睡眠不足を耐えられるのも、お母さん特異のホルモン分泌の影響なのだろう。

また次なる1ヶ月で、どんな変化が起こるのか。
大変だけれども、この上なく幸せな、育児という異空間が始まったのだ。
子供が成人するまでならあと20年間!
そのうちのたった1ヶ月の第一歩。
親になる、自分の成長の第一歩でもある。





2011年8月21日日曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(帝王切開)男児誕生。

7月28日(木)16時頃に手術室に入り、麻酔の処置が20分ほど。
いよいよ、執刀。
すでに下半身は感覚がなく、海の中に浮かんで、ぷかぷか浮いているようだった。

麻酔科の先生「どうですか?気分は悪くないですか」と聞く。
私「大丈夫です。なんか、宇宙に飛んでるみたいですね!無重力ってこんな感じかなあ」
麻酔科の先生「へえ。そんな感じかもしれませんね-。」
私「いやあ、すごい技術ですね!腕までは感覚あるのに、お腹の下だけが無重力みたい!」

私は、最新の麻酔の技術にすっかり感心していた。
メスが入り、お腹、子宮が切られているようだが、もちろん痛くない。
そして、瞬く間に、赤ちゃんが取り出される瞬間が近づいてきた。
看護師さん「そろそろ、赤ちゃん出ますよ!ぐーっとひっぱられるような感覚ありますからねー」
”むんずーっ”とお腹の中の大きな塊が下に引き出されるような感じがあり、
そして、”すーっ”と、その大きな塊が体外に出た。

看護師さん「赤ちゃん、生まれましたよ-!宮本さんの頭の上に見せますよー」
そして、上を見上げると、まさにたった今。
私のお腹から出てきた大きな塊、生身の赤ちゃんがそこにいた!!
「うあー。赤ちゃん・・・」
なんとも言えない気持だった。塊は泣かずにじっと有賀医師の手の中にいた。

そして、赤ちゃんは身体をきれいにしてもらい、再び、私の顔の横にやってきた。
目は閉じたまま、初めての外界のまぶしさに戸惑うような顔つきで・・・。
そして、泣き声をあげた。

私「あー赤ちゃん。良かった。おちんちんありますね-。あーありがとうございます。」
看護師さん「良かったですねー。元気ですよー。おめでとうございます」

ああ、生まれきてくれた。
とにかく元気な姿に会えて、ほっとした。
赤ちゃん、さっきまでお腹の中で大きな存在だった塊がなくなって、目の前にいる。
不思議な感覚だった。
下半身痺れたまま、頭はクリアのまま、手術は無事に進行し、お腹をふさぐ処理がなされていた。

その間に、赤ちゃんは助産師さんが外に運んでくれて、夫や両親と初めての対面をしていた。
そして看護師さんが「赤ちゃんは体重3,148g、身長49.5cmでしたよ」と教えてくれた。
お腹の接合後、1時間少しの手術の全行程が終わり、手術室から出た。
赤ちゃんが取り出されたあと、麻酔科の先生と四方山話をしているうちに、思いがけず
同じ高校の同級生であることが判明。お互いにうろ覚えの当時の記憶をたどりつつ、
なんという偶然!と、大いに話が盛り上がった。

麻酔科の神田知枝先生。北大医学部を出て、麻酔科の臨床医に。
確か、成績優秀でいつも学年上位の優等生だった人だったような・・・。
部活一辺倒だった私とは縁がない世界の人だった。
こんなところで再会するとは、本当に奇遇。

おかげで、多少不安だった帝王切開手術が妙に楽しいひとときに変わっていた。
手術室から出ると、夫や両親が出迎えてくれた。
夫の笑顔を見て、嬉しかった。ほっとした。
ああ、赤ちゃんが無事に生まれてくれた・・・。
やっと会えた。元気な赤ちゃん。

妊娠後期。
たまに赤ちゃんが生まれてくる瞬間のことを思い浮かべ、涙が出てくることがあった。
嬉しくて嬉しくて、きっと本当に泣いてしまうのだろう。夫と一緒に・・・と思っていた。
実際に生まれてきてどうだったかというと、
・・・涙は出なかったのだ。
なにか、嬉しくて涙がこぼれるというよりは、とにかくほっとした、という安堵の気持ちだった。
ああよかった、と。何度も何度も、心の中で繰り返した。

帝王切開の手術後、リカバリー室という部屋で一夜を過ごした。
麻酔が切れ、足の感覚が戻り始めたが、まだまだ身体が動かない。
熱が出てきた。身体中が熱く、のどが乾く。
看護師さんが、何度も夜中に来てくれた。
氷枕をして、熱を冷やす。
頭はぼーとしていた。とにかく疲れていたようだ。
その夜は懇々と、ただひたすら眠った。

翌朝、早くから夫が病室に来てくれた。
すぐに赤ちゃんにも会えた。

「かわいいねー赤ちゃん」
夫は顔がくしゃくしゃになっている。
熱もひき、下半身のしびれがなくなり、頭がさえてきた。
赤ちゃんをあらためて見る。
昨日まではお腹にいた赤ちゃん。
不思議だ。本当にこの子がお腹にいたのかな。

赤ちゃんの顔は、想像していたよりも、うんとしっかりしていた。
ついに、赤ちゃんが生まれたんだ。
じわじわと、赤ちゃん誕生の実感を押し寄せてきた。

2011年8月12日金曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(帝王切開)入院~手術準備

出産前日の7月27日(水)
朝9時に北海道社会保険病院に入院。

30週あたりから逆子になり、逆子体操やお灸治療などを試みたものの、
ついに最後まで頭位に戻らず・・・。

この日は麻酔科の先生の診察がメイン。
2つの麻酔の説明を受ける。
脊髄くも膜下麻酔と硬膜外麻酔。
前者は局所麻酔で下半身だけをしびれさせる麻酔。
後者は背中に細いカテーテルを入れ、痛み止めを入れるもの。

この2つの麻酔により、手術中は意識がある中で、赤ちゃんが取り出されるのだ。

担当の麻酔科の先生は落ち着いた感じの女医さん。
丁寧に当日の流れを説明してくれた。
同席していた看護師さんは、ベテラン風のとても優しい人だった。
「私も高齢出産経験者ですよ。一緒に乗り切りましょうね!」と
暖かい笑顔で励ましてくれた。

不安がないわけではないが、一連の丁寧な説明、手続きと、ベテランの有賀先生に
執刀してもらえるという安心感から、私自身は、落ち着いて手術を受け止めていた。

・・・が、そばについていてくれた夫のイチロウは入院時からそわそわ。
手術日の朝は「最後の妊婦姿を撮ろう!」などといい、病室で写真撮影もしたりしたが、
15時半予定の手術までの時間をもてあまし、読書して気を紛らわすものの、
緊張の表情を隠しきれない。

手術当日の私は、朝はパン2つだけの軽い食事のみ。麻酔をするため、
水分も12時半までと制限されている。
そして、初めての浣腸・・・。これでお腹の中一掃が終了。
同時に、水分補給のための点滴が始まった。

お昼すこし前。赤ちゃんの心拍確認のNST(ノンストレステスト)のあと、
最後の診察。赤ちゃんの頭の位置を確認するエコーをやります、とのこと。
担当医の有賀先生。「どうでしょう。赤ちゃんは・・・」と言いながら、私のお腹を触る。
「うーん。ここに頭がありそうだね」
はい。そのようですね・・・とわたし。

私ももう、赤ちゃんの頭の位置については相当にベテランになった。
エコーで確認するも、残念ながら、おへそのあたりに、しっかりと赤ちゃんの頭があった。
「もう今日生まれますからお話しますが、たぶん臍帯が巻き付いてると思います」
有賀先生は最初の診察時から、きっとそのことは分かっていたのだろう。
私が再三にわたり、臍の緒が巻き付いているから逆子が戻らないのでは?と問うてきた。
やっぱり。そうだったのか。

「でも、大丈夫ですよ。よくあることです。赤ちゃんは元気ですので安心してください」
赤ちゃんの心拍と陣痛の度合いを確認をするNST(ノンストレステスト)は、昨日の昼間も、
そして再度、夜遅くに行い、赤ちゃん元気を確認していた。
きっと念には念を入れて確認を・・・の指示が有賀先生から出ていたのかもしれない。

臍帯が巻き付いていたとしたら、下から出産した場合には、危険が伴うことがある。
実は親戚にも、実は臍帯が首に巻きつき、脳性麻痺になってしまった赤ちゃんがいた。
とにかく、無事に、元気に出てきて欲しい、と、祈る気持でいっぱいになる。

夫には、臍帯の件は伝えなかった。
ただでさえ、あんなに緊張している。
大丈夫だから、有賀先生に任せておけばと。
私は無事の出産を強く信じていた。

付き添ってくれた助産師の阿保さんが笑いながら私にささやいた。
「ご主人、かなり緊張してますねー。顔がこわばってきましたねー」
ほんとだなあ・・・。本人は落ち着いてるのにね。
普通の分娩の立ち会いなんて、どだい無理だったんじゃないかと思ったりした。

手術予定は15:30過ぎだったが、予定時刻にナースコールがあり、もう少し遅れるとのこと。
仕方がないので、本を読み続ける。夫は相変わらず落ち着かない。父や母は病室の外にいた。

16時少しまえ。再びナースコール。
「宮本さん、準備ができました。行きましょう」

助産師の阿保さんと一緒に、点滴をぶらさげたまま3階の手術室に歩いて向かう。
父と母、夫もついてきてくれた。「あら、歩いていくのね」と母。
助産師さん「はい。そうなんです。でも、手術後はベットで運ばれてきます」
手術室の前に付き、大きな大きな自動扉が開いた。
「では、ここで。付き添いの方はそちらのソファでお待ちください」

私は、「じゃあね。いってきます」と言い、手を振った。
父、母、夫は黙って立っていた。3人がどんな顔してたか、よく覚えていないが、
ほんの一瞬だけ、夫の不安な佇まいに、ちょと泣きそうな気持になった。
自分は泣きそうな気持ちなんかじゃないのに。
そんな不安そうな顔したら、こっちが悲しくなるじゃないか。

でもでも、とても若々しい看護師さんが”手術”という場面に似つかわしくないくらいに
すごい元気に迎えてくれてくれて
「はい、宮本暢子さん!ではこちらに行きますね」と手術室に誘導してくれたので、
さっきの泣きそうな気持ち、また一瞬のうちに、どこかに飛んでいった。

大きな手術室のドアが開き、手術台の横に立つ。
スリッパを脱いで、細長い台に乗る。
3人の看護師さん、助産師さんが、私の大きな身体を支えてくれて、横向きになる。
「力を抜いて、少し丸くなってくださいね。これから麻酔をしますよ-」

ついに手術が始まる。少し心拍が上がってきた。
ふぅー。深呼吸する。
横向きに、丸くなって、麻酔を待っている間に、何にもの人の手が同時に私の身体の上を
飛び交い、心電図、血圧計などの計器が次々と付けられていく。
両足には血栓予防の機械がはめられた。
このまま、意識があるまま、手術が進められるのだ。
麻酔科の先生や、執刀の有賀先生やもう一人の男の先生、他にもスタッフの人達が
手術台の周りを取り囲み、手際よく準備が進められる。

昨日、麻酔科の先生の説明の時に同席してくれた年配の看護師さんが
左側の頭のそばに立ち、私の手を握ってくれている。
「宮本さん。私がここにずっといますからね。大丈夫ですからね」
ああ、なんて優しい声なんだろう。と思いながら、
しばらくすると、麻酔の針が背中に入る痛みをちくっと感じた。
「下半身が痺れてきますよ」と麻酔科の女医さんの声。

いよいよだなあ。

はっきりと意識のある中で、お腹から下の身体の感覚がどんどん無くなるのを感じていた。

2011年7月26日火曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠後期) 里帰り出産を決めて。

<北海道大学構内の蓮池>

3月末、祖母の死後しばらく、札幌に滞在して葬儀の後処理などに追われる母の側にいた。
5月、東京に戻った後も、相変わらず、原発問題はなかなか落ち着かなかった。
夫はこの後も不安定な状態が続きそうだ。生まれてくる子供のことを一番に考えよう、と言い、
5月半ばには、札幌での里帰り出産を決めた。

28週(8ヶ月)を過ぎ、いよいよ妊娠後期に入っていた。
地震のため延び延びになっていた会社の送別会が行われ、ようやく職場の仲間にも妊娠の報告ができた。友人・知人たちにも、徐々に情報が伝わり、お祝いや激励のメールが届いた。
同年代の友人は、「すごく嬉しいニュース。勇気をもらったよ!」と、42歳にして妊娠できたことを
自分のことのように喜んでくれた。
ようやく妊婦であることがオープンになり、「おめでとう!」と言ってもらえて、
私も本当に嬉しかった。
なんとなく、仕事を辞める時に心に引っかかっていた、”申し訳ない”、という気持ちが
少しずつ薄らいでもくれた。

母子ともに順調で、体調はすこぶる良かった。
5月末。近所の映画館にて、「うまれる」という出産ドキュメンタリー映画を観る。
死産という痛ましい経験談、18トリトミーという非常に重い障害を持つ赤ちゃんを生み、
育てている夫婦、不妊治療の末、子供を持つことを諦めた40代後半の女性など、
実在の夫婦が登場し、監督がすべての撮影をその本人たちの許可を得た上で進めるという手間のかかるプロセスを経て、妊娠・出産という難しい問題を、真摯に丁寧に、かつ逃げずに
対峙し、映像に仕立てた。
本人たち自らが、この作品が自分たちの問題を消化するきっかけになるかもしれない、とか、
自分たちが出演することにより、癒される、救われる人がいるかもしれない、などの使命感を持って
自らの意志で参加しているところが、素晴らしい映画に導いたのだ。

この映画を観て、私はこのタイミングでこの作品に出会えたことが本当に嬉しかった。
涙が溢れて止まらなかった。心に残る、いい映画だった。
そして、出産すること、へのいろんな意味での覚悟ができた。
何があっても、どんな事態でも、受け止めるしかない。
すべてを受け入れることが、命ということなのだなあ、と思った。

6/末、33週(9か月)過ぎ、里帰り出産のため、実家の札幌に帰省。
本当は町田の我が家で臨月、出産まで夫婦一緒に過ごしたかった。
原発は夫婦、親子を引き裂く。東電、政府を恨む。

7月末、36週(臨月)に入り、お腹の張りが出てきた。
今までになく、ずしっと重みを感じ、今までみたいにスタスタと歩けなくなる。
最低1時間のウォーキングを欠かさずに来たが、横になる時間が多くなってきた。
そして、相変わらず逆子が治らない。
ここ1ヶ月あまり、逆子治療に効く鍼灸も、逆子体操もずっと諦めずに続けてきたものの、
赤ちゃんの頭はおへその上部にしっかりとある。丸い堅い頭がしかとある。

なにか逆子のままでありたい理由があるのかね。
生まれてきたら聞いてみよう。
無事に元気で出てきてくれたらいいじゃないかと、夫も励ましてくれる。
それ以上は望むことはないよねと。
授かっただけで、もう十分に幸せなことだから。

7/27(水)これから入院。
明日の帝王切開の手術前、最後のエコーで赤ちゃんの位置を確認するらしいが、
このままいけば、明日、赤ちゃんがうまれる。
38週と2日。どんな顔をして出てくるのか。
祖母の墓前にお祈りをして、出かけよう。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠中期) 3.11大地震、そして祖母の死


<伊勢外宮にて> 

安定期とはよく言ったもの。
2/22、16週(5ヶ月)に入ると、つわりも治まり、気分すっきり。
下腹部が少しずつ膨らんできた。
体重はまだそれほど増えていないものの、胎盤が安定してきたので、
赤ちゃんは急カーブで成長する、と言う。
毎朝、お腹に手を当てて、夫と一緒に赤ちゃんに話しかけた。

休暇に入ると同時に、我が家のすぐ裏、野津田公園の緑の中での散歩が日課となり、
身体も精神状態もかなり健やかになった。
自分が心地よいと思える場所に引っ越しができたことも、
赤ちゃんを授かることができた、一つの大きな要因だと思える。
実は昨年5月、最初に妊娠したとき。都会のど真ん中からの引っ越しを決めた。
大好きな「風の谷幼稚園」に子供を通わせたいと考え、
幼稚園のある川崎市栗平付近に新居を探し、町田のはずれに絶好の中古物件に出会う。
結果、流産してしまったものの、あの時の赤ちゃんが、この田舎の自然に
導いてくれたんだ、と思う。

3月に入り、ますますお腹が膨らんできた。
まだ胎動は確認できないけれど、むくむくと赤ちゃんが成長してるのを感じる。
安定期のうちに行っておきたい場所、会っておきたい人リストを作った。
札幌の祖母、伊豆大島の叔父・叔母、伊勢神宮へのお参り・・・などなど。

まずは、近場。伊豆にいこうと思いつき、十数年来、毎夏のすもぐりに
通い続けた河津に早咲きの桜を見に、3/8、9と1泊2日の小旅行。
馴染みの干ものや「かねた水産」のおじちゃん、おばちゃんとの再会。
「元気な赤ちゃんを生んでくれよー」と、どっさりと美味しいミカンのお土産をくれた。

こんな穏やかな日々が急転したのが、3/11(金)
町田の自宅1階リビングで、1人のんびりしていた午後15時少し前、あの大地震がきた。
大きな揺れと同時に、地域一帯は停電。余震が何度も来て、ご近所の奥さま方が一斉に家から飛び出てきた。みんな一同にこんな大きな地震は生まれてと、恐がって身を寄せ合った。
震源地が宮城という情報以外、詳しい情報が分からぬまま、慌てて夫と一緒に乾電池を買いに
車でショッピングセンターに向かった。町中の信号が消え、道路は大渋滞。大混乱。
ようやくガソリンを補充し、3時間以上かけて、隣町の夫の実家に避難。ここは停電を免れていた。
深夜のテレビ報道で、予想以上の大惨事を初めて目の当たりにした。
震源地程近い、気仙沼の町の大火災の様子が放映されていた。
遠く離れていても、身が震える。恐ろしい光景だった。

その後、福島第一原発の問題が勃発。テレビ報道、ネット上は放射能汚染関連の、真偽の程が全くわからない情報に振り回され始めた。そして余震が来る度にベット脇に備えた運動靴を履き、すぐさま避難できるように身構える。非常用の水・食料を詰めたリュックサックを玄関前に常備した。

そして、数日後。水素爆発が起きたすぐ後。夫の従姉妹の夕美子さんから電話が入る。
「あの水素爆発で、これから大量の放射能が東京にも降りかかるわよ。私たちは長崎に逃げることにしたの。あなたたちはどうするの?暢子さんは妊婦なんだから、絶対に東京にいちゃだめ。実家の札幌に帰るか、九州あたりに逃げなさい」

夫は夕美子さんの断固とした口調に驚きつつも、電話を切るとすぐさま
「どうしようか。僕たちも逃げようか。どうしたい?」と私に問うてきた。
原発事故後、ある程度の恐ろしさを感じていたが、水素爆発後は自分でも驚くほどに動揺した。また、その夕美子さんからの電話が、その不安な気持ちに拍車をかけてくれた。
妊娠していなければ、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。どちらかというと、被災地にいち早く乗り込み、救援活動をしたい!などと勇ましい気持ちがわき上がるたちだ。
でも、お腹には小さな赤ちゃんがいる。余震や停電の続く状況でも不安なのに、さらに恐ろしい放射能の雨が降り注ぐことになるなんて・・・。テレビ報道がいくら安全と言おうと、全く信用ならなかった。

守るべきものができた私は、直感的に「ここには居たくない。なにか気持が悪い」と感じた。
そして、夫に、「すぐに逃げたい。東京には居たくない」と言った。
2時間後には、車で町田の家を出ていた。とにかく、関東を離れ、西へ西へと、車を走らせた。

3/15から約10日間。三重四日市から、伊勢神宮、熊野神社、高野山と、西国巡礼の旅のごとく、
大地震と原発事故が鎮まるのを祈りつつ、小さな命を守るための旅を続けた。
結果、この間に一時的に関東から離れたことで、かなり平静な心に戻れた。
そこまでしなくても、、、という周囲の声も無視して、飛び出てきて本当に良かったと思った。
夫が、妊婦が精神的に不安定になるのが一番良くない、とすぐさま判断してくれたのも嬉しかった。
そして、今になって、この時期、かなりの放射線量が関東全域にも降り注いでいたことが分かる。
自分たちは自衛できた。英断だった、と心から思う。
自分たちで自らの身を守るしかない。
信じるすべがない。
この信じがたい程、愚かな状況は今現在もまだ続いているが・・・。

そして、今度は西国巡礼の旅の後、まもなくのある朝。実家の母が慌てた声で電話をしてきた。
「ムッターの心臓が止まってしまった」と。
祖母は40歳過ぎ、若くして孫を持ったことから、ドイツ語で母親の意の”ムッター”と呼ばれていた。
3/27(日)朝。祖母はついに入院先の病院で息をひきとった。

私の結婚を誰よりも心配し、そして40歳で結婚できたことを誰よりも喜んでくれた祖母。
2009年2月末。夫のイチロウと一緒に札幌に結婚の挨拶に帰ったとき、
認知症でまだらぼけの頭だった祖母は、その時だけは、意識がはっきり戻り、
私とイチロウの顔をじーっと眺め、嬉しそうに言ってくれた。
「あんたたちは、似てるね。この人はいい顔してるね。
ナコは良い人に巡り会ったね。運が良かったね」と。

そして、「仲良くしなさいよ。優しくするんだよ」と言い、
「本当によかった。ああ嬉しい、嬉しい」と、涙を流して喜んでくれた。

最愛の第二の母のような存在の祖母に、ようやく結婚の報告ができた。
私が結婚するまでは、死んでも死にきれない!と言い続けてきた祖母。
私のお腹に赤ちゃんが宿っていることも、半ば理解してくれていたと思う。
ようやく、戦争で死に別れた祖父とも天国で再会できているだろう、と、
私も、母も叔父も、親族みんなで、祖母の91歳の大往生を暖かい気持ちで見送った。

祖母の命を引き継ぐ、新しい命が私のお腹にいる赤ちゃんなのかもしれない。
祖母の亡骸が骨になってしまった後は、不思議と、すぐ側に、いつも傍らに
祖母がいてくれている気がして、心強くなった。
「ムッターが赤ちゃんを守ってくれる」

祖母の強い魂が、3/11大地震後から長く不安に駆られていた私を支えてくれる気がした。

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠前期) つわりの中、退職準備


<自宅の庭の雪景色>
2011年年明け。1月7日妊婦検診。9週3日、胎児は22.1mm。
「順調ですね」と町田市民病院の女医さん。
流産経験のある人はみんなそうだろう。とにかく、初期流産が怖い。
心拍もあり、経過は順調と知り、ふーっと息を吐く。

渋谷の職場には1時間半近くかけて通っていた。
都会暮らしに疲れ、昨年秋、緑の多い町田の田舎に引っ越した。
ありがたいことに、妊娠前期にありがちな吐き気などの重いつわりはあまり無かったが、
朝の通勤ラッシュはつらかった。そして、たまに強烈な眠気に襲われる。
2月初旬をめどに、取引先への挨拶など、仕事の引き継ぎ業務に追われた。
退職することで、ただでさえ、上司、仲間、部下には迷惑をかけている。
これ以上の余計な心配材料は与えたくなかった。
妊娠したことは一切報告せずに乗り切りたかった。

表参道の鍼灸院には通い続けた。徐先生曰く、
「今回は大丈夫ですよ。妊娠脈もしっかり出ている。
12週を過ぎれば安心ですね」と言ってくれた。

妊娠脈・・・。妊娠した後、手首の内側にはっきりと現れる強い脈のこと。
とにかく不安だったので、気がつくとこの妊娠脈を確かめる、習慣がついた。
妊娠するまでに、徹底的に食事や生活改善、日々のウォーキングを続けてきたおかげか、
多少のつわり・眠気はこらえつつ、多忙な仕事の引き継ぎをなんとかこなし、
1月末の12週目を無事に迎えた。

これまでの20年間、様々な部門で社内外の多くの方々との関わりの中、忘れがたい案件を
たくさん手がけてきた。退職の挨拶、後任の紹介の行脚をしつつ、とにかく一生懸命、
ひたむきに取り組んできた日々が愛おしく、思い出され、そして、
多くの失敗、失態の中、仕事人として成長させもらったことを感謝した。

近しい仲間からは、
「仕事人間だった人がいきなり辞めちゃったら、寂しくなるんじゃない?」なんて言われたけど、
今まで馬車馬のように全力投球したきたからこそ、ちっとも悔いは無い。
思った以上に晴れやかな心持ちで、すべてを後進に譲ることができた。

流産の危険性のある妊娠前期は15週まで。
あと1ヶ月弱をなんとか乗り切りたい・・・。
毎日、祈るような気持ちで、職場と家の長距離を往復した。

2月始め。仕事の引き継ぎが完了。
3月末退職までは、溜まりに溜まった有給休暇を消化させてもらうことにした。
明日から休暇に入るという前日夕刻。
職場の仲間達が、大きな大きな花束で見送ってくれた。
「飯田さん。長い間、本当にお疲れ様でした。改めて3月末に送別会はやりますが、
ひとまず、一区切り、ということで・・・。」
みんなか暖かい、労いの拍手をもらう。

「期の途中でこのようなことになり、申し訳なく思っています。
でも、みんな、この間大きく成長し、引き継ぎをしながら頼もしく感じてきました。
この後のことは何も心配していません。
20年間、全力で仕事をしてきましたので、悔いはありません。
そしてずっと、これからも私はぴあを応援し続けます。
ありがとうございました。」

爽やかな気持ちでいっぱい。
笑顔で会社を出た。

”おまえは仕事(ぴあ)と恋愛している”、とまで言われてきた。
どれだけ会社、仕事、仲間との時間を費やしてきたことか。
仕事のトラブルに、会社の経営危機に、何度眠れない夜を過ごしたことか。

辞める話が社内に広まった後、”ぴあの象徴”、みたいな飯田さんが辞めるのは
とてもショックだと言われて、別の部門の女性の後輩と語り合った時、
仕事と家庭を両立する、という女性のキャリアのモデルを作りきれなかったことが
少しだけ心残りになった。ぽっかり穴を空けてしまい、ごめんね、という気持になった。
私は女性幹部の筆頭でもあり、唯一の管理職でもあったので、
20代、30代の女性の後輩達には、表に現れないけど、けっこうな失念を与えてしまった。

でも、いろんなキャリアのあり方があって良いんだよ、と伝えておきたかった。
「私は不器用なたち。仕事人生突っ走り系なんだよね。
40歳までがむしゃらに働いた分、また健康を取り戻したら、
次の人生のシーズン2のあり方を考えようと思う」

11月末からの仕事の引き継ぎ、20年間の仕事の集大成がようやく終わった。
お腹にいる小さな小さな胎児は、おとなしく、私を見守ってくれた。

2月末、待ちに待った16週(5ヶ月)、安定期に入る。

2011年7月25日月曜日

40歳からの子作り(その5)・・・42歳3ヶ月で自然妊娠。

<自宅の裏山>
2010年12月24日クリスマスイブ。
四谷の産婦人科。エコーで小さな小さな胎児の原形が見えた。6週過ぎ。
心拍も確認でき、「今度は大丈夫そうですね」とお医者さん。

こんなに早く結果が出るとは予想もしなかった。
赤ちゃんは私の決意を待っていてくれたんだな、と思う。
仕事を辞めなかったら来てくれなかっただろう。
妊娠にはストレスが大敵だとよく言う。
不妊治療自体がストレスの原因になる場合もあり、治療を辞めたら
ぽこっと自然に授かったという話もよく聞く。

5月に流産した時、どうやって仕事と両立していこうかと一瞬悩んだ。
幼少時代から、女性も当然のように仕事を持ち、そして家庭も育児もこなすイメージだけを
追いかけてきた。でも、42歳という年齢、事業の責任者という立場から、
その理想を追求するのは無理だ、身体が訴えた。
仕事に全力投球できなければ、組織に迷惑がかかる。
自分にしか出来ない、などというおこがましい考えは毛頭なかったが、どこかで
仕事のキャリアと家庭の幸福の両立、という理想に自分自身が縛られていたのかも。
知らず知らず、いつも緊張しながら、気が休まらない仕事優先の日々を過ごしきた。
がむしゃらに頑張ってきた。

”一回、肩の力を抜く”、という道に導いてくれたのは、子供を授かりたいという母性であり、
女性本来の本能だった。仕事脳にまみれていた20年間から解き放たれて、
一気に身体の中に激変が起き、空から天使がふわっと舞い降りてきた感じ。

赤ちゃんの心拍を確認できた瞬間、
「ああ、神様から授かった」・・・と。
心からそう感じた。

40歳で結婚。子供を授かりたい一心で、不妊治療の専門病院の門をたたいたり、
様々な専門図書を読みあさったり、同じ悩みを持つアラフォー女子の友達とも
たくさん情報交換もしてきたし、ネットで「高齢 妊娠」を検索したことは数知れず。
最初の千駄ヶ谷の医者からの「宝くじに当たるようなもの」というネガティブな診断から始まり、
体外受精でも40歳以上の妊娠確率はどんどん下がることや、高齢者は流産する率も高いこと、
そして、実際に流産してしまったこと。

でも、私が最後まで支えにしていたのは、実は、自分に都合のいい、楽天的なコメントや経験談の数々だった。

神奈川の池川クリニックの院長が「今年中に赤ちゃん来ますよ」とダウジングで予想くれたこと。
表参道の鍼灸の院長がお腹を触りながら「あなたならすぐに授かりますよ」と言われたこと。
体外受精を何度もトライしてだめだった47歳女性が諦めかけた時に自然妊娠したという逸話。
45歳で自然妊娠にこぎつけたジャガー横田の経験談なども、万に一つの希望として、
自分にも訪れてくれるだろう、という明るい光をくれた。

会社の元同僚で既に3人の子持ちのKさんは、流産後にも、こういって励ましてくれた。
「大丈夫。きっとまた授かるよ。
流産したあと半年後、1年後に赤ちゃんを授かった友人が何人もいるよ」

帯広の友人のJさんは、「天使再来セット」というかわいいメッセージカードと
十勝の小豆を送ってくれた。小豆は女性ホルモンにとてもいいんだよと。

弟夫婦は、絶えずポジティブなアドバイスをくれた。特に、義妹は、
「お姉さんにはつらい決断だと思いますが、仕事量を減らすことが最終的な壁ですねと」と
的確な指南をしてくれた。

妊娠・出産、という超プライベートなことではあったが、家族や近しい友人と悩みを分かちあえたことは最後まで本当に心の支えになった。
もちろん、夫は常に絶対的に寄り添ってくれた。
仮に子供を授からなくても、私たち2人の楽しい人生がある、という気持ちでいられた。

そして、装丁がぼろぼろになるほど、何度も読み返した私の心のバイブルは
「赤ちゃんがほしい!」(沢田喜彰先生著/永岡書店)
この先生は、「不妊の9割は克服可能」と説き、「今の不妊のほとんどは、健康管理の悪さと不摂生な日常生活が背景にある”機能性不妊”」。生活習慣・全身の健康と不妊の関係を強く指摘している。そして、安易に最先端の治療を試みるまでに、また「自分立ちにはムリ」と諦めてしまう前に
足下の自分の健康のベースを取り戻す、という、基本的な不妊解決のアドバイスが書かれている。

私はこの沢田先生の考えを徹底的に信頼した。
残念なことに、この本に感動し、受診しようと電話をかけた時、すでに沢田先生は鬼籍の人だった。
対応してくれた目黒の沢田クリニックのスタッフから「1ヶ月前に先生は亡くなりました。いまクリニックは診察しておりません。でも、先生の本を実践して、ぜひがんばってください」と穏やかな口調で言ってくれた。

このバイブルには、何年もの高度不妊治療では結果がでず、最後にこの沢田クリニックを訪れ、
毎日の食事や生活習慣の改善、徹底的に歩く指導に従った結果、45歳で自然妊娠した人の逸話もあった。わたしはこうした経験談をずっと心の傍らに、希望を持ってきた。

そして、妊娠するプロセスは奇跡の集積。
最終的には、科学を超えて、人智を超えた世界だとも思っていた。
赤ちゃんはお母さんを選んでやってくるという、池川クリニックの先生の考え方にも共感した。
妊娠する=自分の努力だけで成果を求められる、達成させる、というたぐいの”仕事的なこと”ではなく、まさに”授かりもの”なんだと感じていた。

42歳過ぎ、再び赤ちゃんを授かることができて、心から、この恵みに感謝した。
・・・と同時に、健康に産み、育ててくれた両親に感謝した。
そのベースがなければ、このような恵みは訪れなかっただろう。

同じく40代で妊娠を望んでいる友人たちにも、一筋の光になればと思った。
また、20代、30代の若い世代の後輩たちには、”生む性”として、自分の身体の健康管理の大切さを伝えたいと思った。子供が欲しいと願う人には、”妊娠に適した年齢”を今から意識して欲しいと、切々と語った。

20年、身体を酷使し、仕事が終わらないうちは深夜何時でも帰らない、帰らせない!といったごりごりの指揮官体質だったがむしゃら私が、今さらながら、の、考え方の大転換。
”生む性”である女性は、身体を壊すような仕事の仕方は絶対にしてはいけない。
そういう会社組織や社会の体質を変えないといけない。なにより、自分で自分の大事な身体を
しっかり守る”自衛本能”を持たなければいけない。

がつがつ仕事する姿しか見せてこなかったので、急にそんな真逆のことを言い出す私に首を傾げる仲間、後輩もいた。

42歳過ぎ、遅ればせながら、私は自分自身の”母性”にようやく、ようやく目覚めた。

2011年7月24日日曜日

40歳からの子作り(その4)・・・流産後の不調との闘い、そして決意

自然に妊娠できる力はあるとわかったことは唯一の救いだったものの、
流産の後は、ぐずぐずと、体調不良が続いた。

とにかくつらかったのはひどい頭痛。
医者は、妊娠中に出るホルモンの影響なので、しばらくすると治るというが、
1ヶ月経っても治らなかった。
今までこんな頭痛に悩まされた経験がなく、もしや脳に腫瘍でも出来たのでは?と
脳外科でMRIまで撮影してもらった、が、異常なし。
ホルモンバランスが崩れているだけ、とのことだった。
仕事にならず、休むこともしばしばあり、仕事仲間にも迷惑をかけていた。

その頃、職場では新しいサービス開発準備が架橋。
リーダーの私自身が先頭にたって動き回り、パートナー企業との折衝や
クライアント開拓に当たらなければならなかった。
流産のため、2週間以上も動けなかった分を取り戻さなければ・・・との焦りもあり、
時間にも、精神的にも余裕がなかった。
職場のメンバーには、なるべく事情を包み隠さず話をし、理解を求めながら組織運営をしていた。
でも、今までのようにパワフルに仕事に対峙できない。

ただ、ここで自分が頑張らなければ。
この新しいサービスが日の目を見るまでは、と、少ない気力を振り絞って、
毎朝、ベッドから這い出る思いで、会社に向かっていた。
早く立ちなおりたいという気持が、ますます身体に無理を強いていった。

2010年夏は例年以上の猛暑だった。
連日続く外回りの営業。
あるとき、明らかに脱水症状になり、主治医に駆け込む。
咳がとまらず、アレルギー性の気管支炎も再発していた。
その後、ほぼ毎日、点滴を受けながら仕事を続けた。
ついでに、この頃から、持病の腰痛も悪化してきた。

家に帰ると、何も手につかない。
夫にだけは、「もう仕事を休みたい」と弱音を吐いていた。

そんな体調不良との闘いが続いた夏の終わり。
表参道の鍼灸治療院の徐先生から言われた一言が、私を大きく動かした。
「うーん。せっかく良い状態になっていたのに。
こんなに疲労が貯まっている身体には、赤ちゃんは来てくれませんよ」

明らかに仕事過多だった。
無理を強いてきたこの数ヶ月を、徐先生に厳しく、ぴしゃりと指摘された。
「どちらが大事なのかを考えないとね。宮本さんにはこの2年ぐらいが勝負ですよ」

言い換えれば、もう2年ぐらいしかない、ということだろう。
相変わらずの欲張り精神が治っていない。
仕事も、赤ちゃんも、と、両方の夢を追っている。

鍼灸治療が終わり、着替えをしながら、先生の厳しい指摘を反芻し、
今本当に自分にとって優先すべきことは何か?を改めて突きつけた。

仕事も、赤ちゃんも、と両方に全力投球することは、今の私の年齢・立場ではもう限界。
これまでのように、24時間、仕事脳。全力投球の生活はもうできない。
メンバーにも迷惑をかける。
赤ちゃんを授かる夢も中途半端になる。

「思い切って、仕事を辞めようか。」

そして、困ったときの駆け込み寺。
いつも的確に指南をくれる友人の美佐子さんに急遽会いにいき、
最後の背中を押してもらった。
「すぐに辞めるべき。明日にでも、会社に辞表を出すべきだよ。」ときっぱり。
私が最終決断をする道をつくってくれた。

9月末。約20年勤務をしてきた、ぴあ(会社)を辞める、決意をした。
身体はもちろん、精神的にも今までになく追い詰められていた。

10月始め、上司と面談。
流産後、体調が非常に悪く、仕事に責任をもって全力投球ができない。
今の事業責任者の立場を全うできないので、会社を辞めたい。
話をしながら、涙が出てくるのが抑えられず、我ながら
「ああ、相当にメンタルにもきてるなあ」などと感じながら、切々と陳情を続けた。

流産後も、人前で泣くことはなかった。夫の前ですら、涙を流さなかった。
泣かないことで、前向きに乗り切ろうと思ってきたが、心に貯まっていた哀しみの澱は
溜まりに溜まっていたようだ。ついに溢れ出てきてしまった。

この涙がなければ、上司はうんとは言わなかったかもしれない。
こいつが泣くなんて、これはただ事じゃないな、と、ようやく分かってくれたようだ。

11月始め、社長との面会を経て、正式に退職が認められた。
今の事業を引き継いでくれる仲間もようやく見つかった。
11月15日辞令が出て、職場の仲間にも報告する運びになる。
その時の、みんなの真剣な、そして不安の入り交じった深刻な表情は一生忘れられない。
万感の思いを込めて、説明をし終えた。もう力尽きた、抜け殻のような身体だった。

この後、自分の仕事人生の総決算。
ゆっくりと、3ヶ月ぐらいかけて、仕事の引き継ぎをすることになる。
そして、仕事を辞める決意をしたあと、身体には大きな変化が訪れた。

いつもの表参道の鍼灸にて。11月半ば。
「あら。今日は力が抜けていい身体になっていますね。また妊娠できそうな感じですよ」
この徐先生の触診の力は驚くべきだ。
こうして、少しの変化も見逃さず、迷わず明言するところが、またすごいのだ。

私も驚いた。
「え?そうですか。先生。実は、仕事を辞めることにしたんです」

先生は、満面に笑みをたたえ
「そうですか!それは良かった。よく決意しましたね。
それで、こんなに身体が柔らかくなってるんだ」

身体はなんと正直なのだ。
これまでの頭痛、腰痛、気管支炎の症状が一気にどこかに飛んだ。
なんだったの?

「身体は脳が支配しているんですよ」と先生。

体調が悪い中、一生懸命に仕事と格闘し、ますます体調が悪化し、精神的にも追い詰められ
身体を正常に司るべき自律神経、ホルモンが機能不全を起こしていたのだろう。

大きな荷を下ろすことを決め、一気に全身に血が巡りだしたみたいだ。
驚くべき急変。
身体は待っていた。私の決意を待っていたんだなと強く感じた。

そして、その後、1ヶ月後の12月末に再び妊娠が判明。
本当に思いがけず、こんなに早く、天使が再来してくれた。
赤ちゃんも私の決意を待っていたのだ。

2011年7月21日木曜日

40歳からの子作り(その3)・・・妊娠力ってなんだ?

妊娠したいと望んでいるアラフォー女子の悩みは深い。
婚活もそうだけど、子作りに関しても、思い切って友達や医者に悩みを打ち明けることで
思いがけない情報や、いろんな経験値に出会える。
なかなか表立って話せないことが多いナイーブなテーマであるがゆえに・・・だ。

つい最近、表紙に「妊活」と大きく書かれた女性誌を書店で見つけた。
妊娠活動・・・?
ちょと無理のある造語だけど、でも、そうやって改めて書かれると、婚活と同じように
自分の考えや価値観を見つめなおし、身体の状態を把握し、ゴールに向けてやるべきことに
時間を意識しながら、しっかり取り組んでいかないと達成できない、ある意味での活動だと思った。

私が、「ここの鍼灸治療の先生にすがろう!」と思えた時、自分は子作りに関して、
どういう姿勢で望みたいのか?がはっきりしてきた。
そして、それは二人でとことん話し合い、相談し合ってきた、夫婦としての結論でもあった。

すでに41歳になっており、時間的にも体力的にも楽観的な状態ではない。
でも、できれば授かりたい。
自力で努力できる範囲のことは、全部やってみよう。
ただし、多額の治療費のかかる高度不妊治療には手を出さない。
もし授からなかったとしても、そのことを夫婦で受け止めよう、と。

婚活にも子作りにも、その人の考え方、価値観が大きく影響する。
良い悪い、正しい間違っている、ではない。
なにを選択するかなのだ。
その選択は自己責任であり、
最終的にはすべて自分で受け止めるしかない。

2009年秋に表参道の鍼灸治療院に通い始めてから6ヶ月あまりたち、2010年3月頃。
基礎体温のリズムが安定的になり、低温期と高温期の境目が
はっきり出るようになってきた。
週1回の治療に加え、毎日、自宅でも徐先生の指導のもと、お灸を据え、
これまでの食事療法、生活改善、毎日のウォーキングなども地道に続けた。

「すごく良くなってきましたねえ。脈の状態がとてもいい。お腹の冷えも
とれてきました。そろそろ天使がくるような気がしますよー。」とのこと。
この鍼灸治療院では、なんと通院して半年の間に妊娠する人が約6割。
1年以内だと、約8割の人に妊娠の朗報が出ているという。

「私は41歳ですけど、他の方はどうですか?」と聞くと、
「うちは、多くの患者さんが35歳以上で、40歳以上の方も半分ぐらいいますよ」という。
そして、その多くが東京都内で忙しく仕事をする、いわゆるキャリアウーマン。
徐先生からが患者さんに指導する中で、なかなか改善してくれないことの一つが、
”睡眠不足”、だという。

「みんな、子供が欲しいと思って高い治療費を払い、ここに来てくれるんだけど、
毎晩遅くまでハードに仕事をして、疲れ切った身体の人が多いんですよ。
そんな夜遅くまで起きてる身体は、血流も悪いし、身体中にコリが残る。
妊娠力を高めたいならば、早く寝ることがとても大事なんですけどね」

ハードワークのアラフォー女子は、忙しいことを理由に、女性ホルモンに大事な
睡眠をないがしろにしている。東京の女性は働きすぎです、という。

私も、この徐先生に指摘された、働き過ぎのアラフォー女子の典型だった。
深夜まで働いている、または外食していることが当たり前。
家に着いて、眠りに就くのは、だいたい1時過ぎ。

「せめて、12時には寝て欲しい」と徐院長。
女性ホルモンの機能活性は、10時~2時に行われるらしく、その時間に眠っていることが
とても大事だという。これは、一般的な女性医学の本などにもよく書かれており、周知の事実だ。
頭ではよく理解している。あとは実行するだけ。

2008年の経営危機以後、私はぴあ子会社の役員として、新しい事業の開発・推進のリーダーとして10数人のメンバーの組織を預かっていたが、結婚後は、子作りのためにも、また夫婦の大切な時間を作るためにも、これまでのように平日毎日の深夜残業、外食という生活を改め、極力、夕方までに仕事を終わらせ、健全な時間に帰宅するよう、大きく時間の使い方を変えてきた。

健全な時間、とは、だいたい8時~9時ぐらい。
毎日とはいかないまでも、週に半分は自宅で食事をする。・・・働きばちだった自分としては、大幅な仕事時間の改善だった。そして、徐院長の助言をうけ、睡眠改善も少しずつ意識して行った。

2010年5月連休の初めのこと。
徐院長の予言から1ヶ月あまり。
生理が遅れ、妊娠検査薬の結果が「+」(プラス)と出た。

「なんと、本当に!?」
こんなに早く結果がでるなんて。
予言通り、空から天使が来てくれた!
徐院長の見立てはすごい。
夫婦2人で、大喜びだった。
お互いの両親にも報告。
出産までの仕事のやりくりなどを考え始めたりしていた。

しかし、喜びもつかの間、連休明け。
仕事に向かう途中で調子が悪くなる。
・・・そして出血。
血相を変え、慌てて産婦人科に駆け込んだ。

「切迫流産ですね。なんとかぎりぎりまだ受精卵はあるけど・・・。
うーん。とにかく安静にして、様子を見ましょう」

医者からは仕事も家事も一切休み、自宅安静するように指示された。
ホルモン注射や投薬の効果で出血は多少収まりつつあったが、下腹部がちくちく痛み、まともに歩けない。仕事どころではない。やむなく、上司や一部の部下には事情を話し、大事な仕事の約束などもすべて任せ、自宅で静養。

日に何度か仕事の相談で会社からの電話やメールが来る。
仲間に申し訳ないと思う気持ちと、お腹の赤ちゃんがどうなってしまうのか不安で不安でたまらない気持の両方が押し寄せ、普段はめげないタフな私も、気がふさんでいった。

そして残念ながら、2週間安静の甲斐無く、5月半ば、9週目で流産と診断された。
「うーん。赤ちゃん育ってないですね。これ以上は難しいと思います」

もう少し様子を見ると変化があるのでは?と、涙をこらえながら先生に万が一の
可能性をすがりたかったが、でも、手元にあるエコーを見たところ、
素人目にも、これは駄目なんだろう、ということが、はっきりと、分かってしまった。

近くの喫茶店で診察結果を待っていた夫。
「だめだった」・・・と言うと、同じように、大きく顔を曇らせた。
天使はまた空に帰って行っちゃった。喜びから一転。身体中が凍ってしまいそうだった。

しかし、夫は励ましてくれた。
「でも、一歩前進したよね。自然に妊娠できると確認できたんだからね」
また、赤ちゃんは来てくれると言ってくれた。
この半年の地道な努力・治療のおかげで、妊娠力がアップしたことは確かだ。
次に希望をつなげよう・・・。
そして5月末の手術の後、供養と自分自身の心を鎮めるために
秩父の今宮神社にお参りにいった。

初期流産は実はかなりの確率で起きることだ。
40歳以上の高齢であれば、30%~40%近い確率とも言うらしい。

そして、流産したことを打ちあけた時、
「わたしも経験してるんだよ」
「知人でも流産後に、また授かった人がいるよ」と多くの友人に励まされた。

実の母親なぞは、
「私は2回も流産してるから、大丈夫よ」と明るかった。
娘の私も知らなかった。
こうして、表に出ないけれど、流産という悲しい事象が多くあること、
確率的に必ず発生してしまうこと、を知り、妊娠・出産に至るまでの
自然の摂理、淘汰を、女性は受け止め続けてきたのだなと、しみじみ思った。

天使の再来を願いつつ、仕事に復帰を始めた。

2011年7月20日水曜日

40歳からの子作り(その2)・・・東洋医学にすがる

神奈川の自然分娩派の池川クリニックで勇気をもらったあと、
妊娠にこぎ着けた同じ40代の友人から、恵比寿のファテリテイクリニックを紹介してもらう。
「実績もあるし、感じのいい先生だったよ」との言葉を聞き、新たな気持ちで診察に向かった。

ここの院長は、頭ごなしにすぐに体外受精!と詰め寄ることなく、本人の納得性を大事にするという方針を持ち、40歳という年齢ではあるが可能性はあるので、まずは夫婦共に身体の状態を調べるため、基本的な検査をしましょう、とのこと。

1ヶ月半ほどかけて、通常の不妊治療の初期段階で行う諸々の検査(血液検査、卵管の検査、フーナーテスト、精子の検査)などを行い、特に問題はない、との結果が出た。
最初はタイミング療法からと言われ、排卵時期を確認しながら自然分娩を期待していたものの、2,3ヶ月たったが、そう簡単には妊娠しなかった。そのうち、念のため、体外受精をする場合の説明会に参加してみては?とのアドバイスと、体外受精のプロセス、妊娠の確率、費用などの分厚い資料をくれた。

その後、参加申し込みをしたものの、体外受精の分厚い資料を一通り読み、
どうも感覚的に受け付けないなあ、と感じてしまい、結果として説明会には行かなかった。
たくさんのホルモン剤を投与し、採卵し・・・、というプロセスが怖かった。
40代過ぎて、欲張りなのは100も承知だが、自然に授かりたい、という気持ちがむくむく出てきた。

そんな折り、ファティリティクリニックの受付に、ある鍼灸治療院のパンフレットをふと目にした。
”不妊治療に実績・・・アキュラ鍼灸院”
身体の持つ本来の力を引き出す鍼灸治療。
私も過去に腰痛治療で何度もお世話になった。これはいいかもしれない・・・。

「ここに行こう!」
ぱっとパンフレットをとり、すぐに電話予約。
表参道のビルの最上階にある、小さなこじんまりとした鍼灸院にすがるような思いで駆け込んだ。
初めての診察。

中国籍の徐院長。同じ年くらいの若い爽やかな先生で、にこやかに診察してくれた。
これまでの検査データなどにもすべて目を通したあと、私のお腹のあたりをじっくり触った。
そして、一言。
「宮本さんは、やわらかい、いいお腹をしています。これならすぐに妊娠できますよ」

いきなり、目の前に青空が広がった気分。
私は、思わず寝たままで、院長を見据えて、詰問した。
「え??どこが・・・・? どういう風に大丈夫なんですか???」

なんていったって、千駄ヶ谷では、”宝くじに当たる確率”とまで言われたのだ。
それが、この鍼灸の先生の触診で、「すぐに妊娠できそうだ」との真逆の診断結果になったのだ。
その後、身体の状態を丁寧に診ながら、お腹や足を触診したり、脈を診たり、舌を診たりしながら、
じっくりと説明をしてくれた。
とにかく、私は年齢の割には良い状態。エネルギーがある。体力がある。
元々、妊娠力は備わっている身体だから、冷えをとり、腰痛、コリをとり、適度に運動を続け、
鍼灸治療をしていけば、きっと授かるでしょう、と言う。

自信を持って、笑顔で、そう言ってくれた。
「西洋医学では40歳になると自然妊娠は無理とすぐ言いますが、東洋医学では、健康な女性は生理があるうちは妊娠できる、という考えなんですよ」と。

私の感性にぴたっときた。
この徐先生に託そう。
ここの鍼灸治療院にすがろう。

いきなり、身体中に元気がわいてきた。
大丈夫ですよ、と言われたことだけで、気持ちが思いっきり前向きになれた。

今振り返っても、この気持ちが前向きになれたことが、実は一番の治療だったのだ。
妊娠には脳が大きく関与している。
リラックス、前向きな心がないと、女性は妊娠しずらい。
ナイーブな身体なのだ。

2009年の秋、表参道の鍼灸治療院で、高齢妊娠に向けた、大事な第一歩を踏み出せた。

2011年7月19日火曜日

40歳からの子作り(その1)・・・高名な不妊治療医からの衝撃の言葉

スピード婚を振り返ると、一つ大きな勝因が思い当たる。
付き合い初めてすぐのこと。私ははっきりと宣言した。
「私、もう遊んでいられる年じゃないので、結婚する前提じゃないと付き合わない」
「それと、子供が欲しいので、なるべく早く結婚したいと思ってる」

40歳過ぎの晩婚だから、こんな潔く明言できたのかもしれない。
3ヶ月ぐらいお付き合いして、徐々にお互いのことを理解して・・・なーんていう
悠長なことは言っていられないのだ。
でも、結果は、この”はっきり”が正解だったのだ。

彼もすぐさま、「じゃあ、結婚しよう」と言ってくれたのだ。

そんなわけで、アラフォー女子で未婚の友人に言う。
「結婚するつもり、子供が欲しい、ということをはっきり言う。
 それでうろたえるような男性とはつきあわない。そうじゃないと時間の無駄だよ」と。

最初から、お互いの認識がすりあっているから、楽だった。
40歳と49歳の中年夫婦。こんな2人が子供を授かるには、何をすればよいか???
早速、妊娠・出産に関する書物を読みあさった。
すでに先に妊娠・出産を経験していた弟の奥さんからも、様々なアドバイスをもらう。
食事・栄養の工夫、生活習慣の改善、そして高齢出産を成功するための高度不妊治療の実態などなど、一気にいろんな情報を収集した。

毎朝の野菜・果物ジュース、玄米食、ビタミンサプリ、甘いものはとりすぎない。
身体を冷やさないために冷たい飲み物はやめる、好きなビールもほどほどに。
毎日30分以上のウォーキング、ストレッチなどなど、
妊娠しやすい身体作りのためにできる身近なことはすぐに始めた。

結婚して3ヶ月ぐらい経過したころ、
お互い若くない。念のため産婦人科で検査をしてもらおう、ということになり、
千駄ヶ谷にある有名な高度不妊治療の産婦人科に足を運んだ。

メディアにもよく出てくる、高名な産婦人科医に言われた衝撃的な言葉はこうだった。
「40歳と49歳のお二人に、普通に子供ができる可能性は宝くじに当たるようなものですね」

私たちは、「えっ???」と顔を見合わせた。ほんとに驚いた。
「でも、40代の女性でも、妊娠してる方はいますよね」と私が聞くと
「はい、いますけど、自然に妊娠できる方はほとんどいません」と言う。
「でも、私の周りには、自然妊娠している友人もいますが・・・」
「まれにはいますね。でも確率はとても低い」

まだ私たちは血液検査など、不妊原因を突きとめるための検査すらしていない状態だったのに。
いきなり「自然妊娠は宝くじに当たるようなもの」と言われ、本当にショックだった。

「個人差はないのでしょうか?」と引き続き疑問を投げかけた。
「ありませんね。40歳以上の女性は卵子が1年ごとに、どんどん劣化します。個人差はありません」

個人差はない、ときっぱり言われた。
本当にそうなのだろうか?
ショックと疑惑の念にかられたまま、その医者の部屋を後にし、妊娠カウンセラーとやらの肩書きの女性に別室に連れて行かれた。そこでは、体外受精による妊娠率のグラフやら、高度不妊治療のさまざまな資料を一気に見せられ、早口に一方的に説明を聞かされた。
「宮本さんは40歳ですから、今なら体外受精をすれば、可能性があります。2年、3年経ってから後悔しないためにも、早く決断されることをお薦めしますよ」

まるで、不動産屋の押し売りのようだった。
今ならお得。今買えばあなたは有利。今を逃すと大変な損をする・・・。
そんな脅し半分の営業トークを、どの程度プロなのか?わけのわからない肩書きの女性から
続けざまに浴びせられた。辟易した。傷ついた。そして憤慨した。

彼も同じ気持ちでその病院を後にした。
ここの医者には二度とかかるまい。
しかし、「宝くじに当たるようなもの」といわれたショックは大きかった。
本当にそうなのかなという不安な気持ちに苛まれ、数日は悶々・・・。

その後、”宝くじショック”について、弟に打ち明けたところ、すぐに別の産婦人科を紹介してくれた。弟夫婦が第一子を出産した、神奈川にある自然分娩派の池川クリニック。
すぐさま、藁をもすがる思いで、弟夫婦も付き添いのもと、池川先生に相談に出向いた。

池川先生は、宝くじ問題も含め、私たちの簡単な話を聞いたあと、こう言った。
「大丈夫ですよ。赤ちゃん、授かりますよ。お二人も健康そうですから」
実は、ここでもいわゆる検査はまだ何もしていない状態だった。
彼には前妻との間に2人子供がいる、という事実を話すと、
「あーそれならご主人は大丈夫でしょうね」とのこと。
私に至っては、見た感じ。健康そうだから。という医者らしからぬ、直感コメントのようだった。

何となく、腑に落ちない表情の私たちを見ながら、次はこう言った。
「じゃあ、ダウジングをしてみましょう」
私の手をとり、丸い石をひもでつるしたものを掲げ、なにやらつぶやいている。
神様と交信?でもしているのか。
これって、いわゆる、コックリさん?
やがて、私の手を離して、にっこり微笑んで
「あー、赤ちゃんきますよ。今年中にくると言ってます。女の子のようです」

はあ?

「当たるんですか?それ」と私が笑いながら尋ねると
「けっこう当たるんですよ-。でも、当たった人しか来てないのかもしれないですけどー」
にこにこと仏様のような大らかな笑顔で、そう言うのだ。

ダウジングで赤ちゃんを予言してくれた産婦人科医の池川先生。
医院を後にし、彼や弟夫婦と歩きながら、
「しっかし、不思議なお医者さんだったねー」と思い起こしながら、
でも、なんだか明るい気持ちで帰路についた。

「大丈夫です。40歳と49歳だって、まだまだ十分可能性ありますよ」
ダウジングして、私たちに赤ちゃんがやってきてくれるって言ってくれた。
事実、あまりに根拠の無いアドバイスではあったが、あまりに非科学的だとも思ったが、
それでも、私は十分に救われる思いがした。

まだ、間に合う。妊娠できる可能性はあると・・・。
徐々に宝くじショックから立ち治れそうな気がしてきた。

40歳からの婚活(その5)・・・奇跡のスピード婚

2009年正月明け。
ふっと素に返り、「いま会いたい人って誰なんだろ?」
年末のいくつかのメールの中に、彼からのものがあったのを思い出した。
臆せずに、「会いたい」という気持ちをそのまま、伝えてみた。

1月5日。仕事始めの前日。初めて2人で会う約束 at 六本木ヒルズ。
ローリングストーンズのドキュメンタリー映画「シャインアライツ」を観ることにした。
映画も楽しく、鑑賞後のおしゃべりも楽しく、尽きない話題とともに、銀座で串カツを食べた。
ちょっと奇天烈な人。ちょと結婚相手には向かないという印象だったのが、
初めてじっくり語る姿に、意外とまじめで、誠実な一面を垣間見た。

特に心に残っているのが、過去の離婚歴の話を打ち明けてくれたときのこと。
結婚は恋愛の延長ではない。相手を尊敬できることが大事、と言う。

へえ。そうなのか。

人は見かけによらないと言うが、外見とは裏腹に、しっかりした価値感を持った人とわかり、
これまでの自分の色眼鏡を恥じた。
そして、好きな音楽や映画の話、現在進行形の自然・環境をテーマにした仕事の話、
そして家族の話、、、と時間を忘れて、しゃべり続けた。

この1月5日の初デートから、一気に私の気持ちが動いた。
・・・と言いつつも、実は振り返ると、12月末までにも、お互いに、心の奥底にある気持ちには
うすうす気がついていたようだ。
いろんなことに興味を持ち、自分の考えをしっかり持っている。
その考えにお互い、共感できることがとても多かった。そして何よりも一緒にいて楽しい。

でも、この数ヶ月間は、ずっと押しとどめていたことが分かった。
私は、”結婚には向かない人”、という色眼鏡で。
彼は、”大事な仕事の相手だから”、というブレーキで。

そんな奥に秘めた、押しとどめていた気持ちが大量にあったせいか、
その後は、信じられないほどの勢いで事が進む。

1月7日:我が家で新年会。仕事仲間2人を交え、鍋を囲む。
1月9日:仕事の打ち合わせ。その後、夕食を2人でとり、楽しく談笑。
1月10日:連休なので、会おう、という誘いのメール。
・・・いろいろすったもんだの細かい成り行きは省くが、
ここから、いわゆる”おつきあい”が始まった。

そしてこの3連休中のうちに、結婚することを決め、
1週間ののちに、お互いの両親に報告。
私は父と母に長い手紙を書いた。

”父上、母上さま。大変に長らくお待たせいたしました。
 私は、ようやく、心から結婚したい!と思える人に出会うことができました。
 その方は・・・云々”

札幌にいる両親。直接に会って説明ができないので、
丁寧に、婚歴や年齢などのネガティブ要素も含め、彼の人となりをたっぷりと、
厚い厚い手紙を認めた。

父からは、すぐに返事のハガキが届く。いつもながらの達筆で、
”郵便受けに分厚い手紙。中を開くと重要な手紙が。
すばらしい報告をありがとう。カメラマンとは感性豊かな素敵な仕事・・・云々”

母からの電話で、父が私の分厚いハガキを見つけ、中身を読み終わったあと、
母のところに飛んできて、”ナコからの大事な手紙が来ましたよ!”と
それはそれは、大喜びだったと教えてくれた。
そして、懸念された、離婚歴のことも、父は気にしないと。
母もこれには意外だったと後から述懐。
私が選んだ人だから、最終的にはすべて受け止めてくれたのだと、本当に嬉しかった。
そして、祖母にも念願の孫の朗報が伝わり、「嬉しくて、涙が出るよ」と言ってたわよ、と母。

札幌の両親が認めてくれたことで、彼も本当に嬉しかったと言う。
そしてその後、彼も父と母あてに、心のこもった手紙を書いてくれた。

1月24日:彼の両親に挨拶にいく。
母の帯を締めた着物姿で、緊張しながら家に入る。
お父さん、お母さんには、想像以上の歓待を受けた。
うわさ通りの個性的なお母さん。優しい穏和なお父さん。
お母さんはずっと私に詰問責めだった。
「イチロウのどこが気に入ってくれたの?」その一点を・・・。

そして、帰り際には
「あなたみたいな立派なお嬢さんが、うちのどら息子と。
ほんとにありがとう。仲良くしてね。別れるならわたしが死んだあとにしてちょうだいね」と。

49歳、離婚歴2回の彼。もう結婚するなんてことは考えていなかったので、
急遽持ち上がった再婚話に、彼の両親は相当に慌てたらしい。
しかし、私の登場により、彼に新しい風が吹いたことを、心から喜んでくれた。
私も、ひと味違った面白い彼の家の雰囲気がすぐに好きになった。

1月末。両親の代わりに、神奈川に住む叔父・叔母に結婚の保証人を依頼。
弟夫婦も交えて、食事会をした。幼少期からの深いつきあいの叔父に
この結婚を認めてもらい、後ろ盾になってもらったことも大きい。

2月2日:入籍。両親に彼を紹介するまえに入籍することに彼は躊躇したが、
ここまできたら、当初の目標だった旧暦でいう2009年のうちに結婚したい!と強く主張。
日柄がとてもいい、と信頼する人に後押しされたこともあり、札幌の両親も説得して、無事入籍。

1月5日から1ヶ月立たないうちに、私はついに結婚にたどり着いた。
39年間は、なんとぐずぐずしていたことだろう。
40歳になってからの婚活。
目標設定通り、40歳と3ヶ月あまりの、このラストスパート!奇跡のスピード婚!

結婚が決まるときは、すべてのことがスムーズにいく、、、と聞く。
私の場合も、傷害がなく、気がついたら入籍までたどり着いていた。
無理なところがなく、お互いに気持ちが離れずに、とんとん拍子だった。

結婚って、そんなものなのかもしれない。

2月2日。渋谷区役所に婚姻届けを提出。宮本性になった。

宮本一郎(49歳)、暢子(40歳)
私たちは夫婦となり、好天の渋谷の街を笑顔で散歩した。

2011年7月17日日曜日

40歳からの婚活(その4)・・・型破りな娘の晩婚を祈る老父

2009年元旦。家族そろってお正月のおせちを囲む。
徐々に弱っている祖母を見ながら、なんとしても今年こそは
結婚の報告をしなければなあ、、、と、婚活の目標設定を1年延期。

そして1月某日。仕事始めに向け、東京に戻る支度をしている私に、
初めて、父親までが重い口を開いたのには驚いた。
「そろそろ、いいなと思う人がいたら、連れてきなさい」

東京に上京して約20年。
母や祖母からの結婚への期待は幾度となく聞かされてきたが、父は何も言わない人だった。
それだけに、よほどの思いが募ったのだろう、と、年老いた82歳の父の白髪頭をまじまじと
見つめてしまった。そして、心の中で、「ごめんなさい。ご心配かけております・・・」と陳謝。

母がこっそり耳打ちしてきた。
「あの子は型破りな娘だから、普通のサラリーマンとは合わないのだろうね、とお父さんは
心配していたわよ」

ふーん。
「型破りに育ててくれたのは、あなたですよ、あなた!」
「そして、私は正真正銘のサラリーマンなのだけれど・・・」と、心でつぶやく。
しかし、父の心配はなんか、分かる気がした。

父はこれまで、私の進路について、とやかく注文をつけることはなかった。
むしろ、父の本意とは違う方向に進んだ娘を尊重し、
自由に、のびのびとやりたいことをやらせてもらった。

たとえば、本当は父の好きな優雅なバレエを習わせたかったらしいが、
私は格闘技の試合の緊張感にあこがれ、高校時に空手部に入部。

できれば北海道に止まり、医者になって欲しかったらしいが、
部活の空手に夢中で勉学が追いつかず、私立文系コースに進路変更。

東京の大学に行くことは反対しなかったが、父が推薦したのは、
聖心女子大学、そして学習院。

「この私になぜ?聖心女子大を薦めるかなあ・・・」
なよなよしたお嬢さん大学になんか、私は一切興味はなかった。

その後、運良く、大学に合格し、バンカラな校風の早稲田の入学が決まった時から
父は、娘が自分が願っていたような、優雅な娘には育ってないことをようやく理解したようで、
大学4年間、音楽サークルでドラムを叩いていたことにも、
その後、一流企業の内定を断り、名も知らぬ小さな出版社に就職することを決めたことにも
強くは反対はしなかった。

その後の型破りな娘の行く末を、おっとりお殿様体質の父はひそかに案じていたのだろう。
40歳にもなり、いまだ未婚の娘が東京に帰る間際に、今までずっと口に出さずに
心にしまっていた言葉がついに出たのだ。

なんか、妙に心に沁みた。
あの父に、「いい人だなと思ったら、連れてきなさい」と言われた。
もう、家柄やら、肩書きやら、学歴やら、年収やら、そんな要素を望む時期はとっくに逸している。
・・・と、うちの父も悟っているんだと思った。

わたくしも!
大変に遅ればせながら、そう思います。

レッツゴー!婚活。ソーナチュラル!
色眼鏡をとって、自分が素直に、いいなあ、って思う人を探そう!

さてと。
そんな老父からの後押しも受け、2009年、新年度の婚活は始動した。

2011年7月16日土曜日

40歳からの婚活(その3)・・・アラフォー女子の欲張りな婚活

最愛の祖母から「あんたが結婚しないと、死んでも死にきれない!」と泣きつかれて、はや数年。
結婚しよう!結婚したい!という気持ちは大いにありつつも、30代後半、アラフォーに突入してからの日々は、相変わらずの、仕事三昧だった。

2008年春。39歳最後の年。会社はある事業のトラブルが発端となって経営危機に陥り、創業以来初めて、やむなく早期退職者を募る・・・という緊急事態になった。経営幹部の端くれとして、経営再建のための様々な対策に奔走し、毎日深夜まで働き詰めだった。

運命の人(=今の夫)とは、こんな多忙な最中に出会う。
信頼する会社の先輩からの仕事の引き継ぎ。
「変わった人だけどあなたなら大丈夫」と言われ、紹介された。

最初の印象・・・「なにか、心に深い溝を持ってそうな危うい人」
とにかく、忙しい時間の合間に設定した打ち合わせだったので、
ささっと簡単に挨拶をして、時間を気にしながら早口で必要な質問をし、
「では、またこんど・・・!」って感じで、とにかく慌ただしく、私は先に席を立った気がする。
・・・てなわけで、あちらの私の印象は、「なんて慌ただしい人」

早口で慌ただしいのは、私の性分。まあ、今もそう変わらないとこだけど。
当時はさぞかし、通常より、さらに輪をかけてひどい立ち振る舞いだったと反省する。

決して好印象ではなかったものの、彼が持ち込んだ企画が私の興味に大いに一致したこともあり、
その後、仕事に発展し、定期的に会うことになる。

「12月末までに結婚相手を決める!」という39歳ギリギリの目標設定中に現れた危うい人物。
9月に初めて会って、会社での打ち合わせ、仕事仲間も交えての夕食などを経て、
だんだんに彼の人となりが見えてきた。

とにかく声が大きい。エネルギッシュで、止めないとずっとしゃべっている。
身体も大きいが、とにかく、なんというか、その長時間トークには驚いた。
送ってくるメールもとにかく長い。酔っぱらった勢いで書いてくるメールは宇宙の話やら
環境問題やら、これまた奇想天外。久々に会う、好奇心旺盛な変わった人物だった。

私は父が変わった人だったこともあり、”変わった人耐性”が、かなりある方だ。
たいがい他の人が困惑するような変わった人、変人でも大丈夫。
いや、むしろ変わってる人を好む方かもしれない。
多少、枠をはみ出ているぐらいの人が好きだ。
枠の中に収まってる人はつまらない。

・・・彼と会い、そのエネルギッシュな弾丸トークと接しているうちに、だんだんと
変わった人耐性=変わった人好きの自分に、どうやら気がつき始めたようだった。
この人といると、なんだか妙に楽しい、と。

年末に近くなり、仕事が発展しくにつれ、かなり頻繁にメールのやりとりをするようになっていた。
その内容の奇天烈さ、にも、異常な頻度にも慣れ、その会話が心地よくなっていった。

結婚相手として意識していたか?というと、ほんの1%ぐらい?片隅には存在。
しかし、頭では大きく否定していた。だって・・・。

「結婚相手には向かないから、やめときなさい」
彼をよく知る同僚の女友達からのアドバイス。
その女友達曰く、アーチスト気質全開の人。一緒に生活ってタイプじゃないでしょう、とのこと。

たしかに、彼のバックグランドがその不安を物語っていた。
バツ2(離婚歴2回)、子供2人(前妻がひきとる)、フリーランスのカメラマン、しかも49歳。
これだけ聞いただけで、誰しも結婚相手には薦めない要素満載。
私も、彼と一緒にいるのはとても楽しい、こんなに話があう人もなかなかいない!と思いつつも、
頭の中で、彼のバックグラウンドが離れず、結婚相手としては”NG”・・・!を出していた。

・・・なので、彼との楽しい仕事の企画ばなしの傍らでも、せっせと、頭の中でOK!を出せそうな
相手探しの婚活をしていた。

39歳にもなって、欲張りな婚活をしていた、と今更ながら思う。
仕事がつがつのまま、独身できてしまった39歳。楽しくて気が合う相手が見つかってもなお、
世間的にいう、”結婚にふさわしいバックグラウンドを持った男性”を探していたわけだ。
離婚歴や職業の安定性、年収、年齢など、、、まあ、せめて30代前半の女性なら
求めてもいいかなと思われる、結婚相手に求めるいわゆる社会的要素?=バックグラウンド。

なんて、身の程知らずだったか、と思いますね。
アラフォー女子は、こんなことにこだわっていては一生結婚できませんね。

自分をよく鏡で見なさいと言いたい(過去の自分で今の自分が!です)

そのバックグラウンドがどれほど重要なのか?も、
本来ならば、賢いアラフォー女子は分かっていなければならない。
職業やら、離婚歴やら、年収やら、年齢やら、そういうことは取っ払っても
「あの人は素敵」と思える、認められる力が備わっててこそのアラフォー女子。

そして、自分は仕事を持ち、自立して生活してきたわけだから、
結婚相手に求めるのは、そんなバックグラウンドじゃないってこと。
自分の興味や、考え方や、将来の夢、生活の今後について、楽しく語り、
なにか一緒に寄り添って作っていけそうな、1人じゃなくて、2人だからこそと思える、
そんな人生のパートナーが欲しいんだろうって。

社会から、世間からの色眼鏡。親の色眼鏡。
自分自身の色眼鏡も取っ払えると、晩婚ゆえの理想的なパートナーが見えてくる。

私はそんなことに、2008年12月末まで気がつくことができず。
欲張りな婚活から目が覚めずに、自分との約束の2008年を終えてしまった。

2009年1月正月。今までになく、暗澹たる寂しい新年を迎えた。
「あー、結局、相手を見つけることができなかった・・・(ばあちゃんごめんなさい)」

どうする?2009年。
40歳のお正月。
両親は、もはや不憫であまり触れない?といった感じがひしひし。
しかし、祖母からは相変わらず、結婚への詰問が続いていた。
すでに、認知症気味で、意識がまだらになり、89歳の高齢になってまで
唯一気にかけていたことは、私の結婚だったのだ。

祖母のためにも、自分のためにも、結婚相手探し・・・、がんばろう。
力なくも、また新年に誓いをたてた。

2011年7月15日金曜日

40歳からの婚活(その2)・・・39歳までの総括をする

結婚するまでの39年間の総括をしてみると、
「なぜ40歳まで結婚できなかったのか?」が
浮き彫りになってくる。

特に、幼少期~思春期までの生い立ち、家庭環境と、そこで注入された価値観や
自分の受け止め方がどうたったか?を振り返るのは非常に重要。
年をとるほどに、恐ろしいほどにその影響が大きいことに気づくのだ。

家族は両親と兄・弟の3人兄弟。そして母方の祖母。
娘にとっての、男性のファーストインプレッションは、父親に多くを与えられる。
私の父は勤務医(内科)。実家は北海道日高のサラブレットを経営する牧場で、10人兄弟の7番目。幼少期からお手伝いさんがたくさんいたという、比較的裕福な田舎のお坊ちゃんとして育つ。兄弟の中でも格別におっとりしていたらしく、「天皇陛下」というあだ名だったらしい(笑)
独自の価値観を持ち、ユニークさ、変わった人度合いでいうと、かなりハイレベル。
父の逸話を話すと、友人に喜ばれることが多い。

逸話その1・・・
夏になると、家でスカートをはいていた。理由は、暑いから(南の国では男性も布を巻く)
それと、女性が長生きするのは、衣服を締め付けないことに起因しているのでは?と考え、実践したくなったらしい。
小学生の時、友達と家で遊んでいたら、真っ赤なタオル地のスカートをはいたまま(しかも、ノーパン)、「はい!写真をとりますよー」といって部屋にカメラを構えて入ってきた。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。でも、そのスタイルを決してやめない人だった。

社会の一般常識を気にせず、独自の価値観を持つ人。
クラシック音楽鑑賞、美術鑑賞、バレエ鑑賞など、文化芸術については並々ならぬ趣味を持ち、
そして、無類の読書好き、カメラ好き、ワイン好き・・・。”品の良いオタク”

そして、3人の子供達をサラブレッド(馬)のように育てるべく、毎日夕方には帰宅し、
我々を公園に連れて行き、森林散歩、野球、かけっこ・・・。
とにかく、自然の中で徹底的に身体を鍛えさせられた。
夏は海。子供は裸でいい、と言い、水着も着せてもらえず、父自ら裸で海辺で走り幅飛び、すもう・・・。
冬はスキー。足腰を鍛えるため、リフトには乗せてもらえない・・・。

このようなユニークさに加えて、古い日本の男子然、としているところもあり、いわゆる亭主関白な側面も大きかった。家事はいっさいやらない。札幌は雪国なので、冬になると毎日の雪かきが重労働なのだが、うちの父が雪かきをしたのを見たことがない。「手をけがすると仕事に差し支えますので・・・」といい、母や祖母、私たちが汗だくで雪かきをするのをじっと眺めている、という人。

母はそんな父と高校卒業後すぐ18歳の若さで結婚をした。
父は33歳で、15歳も年が離れていたが、父曰く、「今まで会った人の中で、一番話があうので決めた」と言っており、若くて美しい母だったこともあり、また浮世離れした、お殿様体質の父には、何かがぴたっときてしまったのだろう。

母は北海道帯広で生まれた。祖父が昭和19年、太平洋戦争のためフィリピン沖で戦死。当時3歳の母はほとんど記憶がないらしく、祖母と弟の3人で祖父の実家の帯広にて戦後を迎えたという。
28歳にして未亡人になった祖母は、2人の子供達を育てるため、事業を興した。幼稚園向けの教材キンダーブックなどを販売する会社「札幌保育館(フレーベル館)」。
当初は帯広で開始し、その後札幌に事務所を移転。祖父の父親(舅)にお金をかり、豊平区にわずかな土地を買い、会社と小さな自宅を建てた。少ない従業員とともに、北海道中の幼稚園、保育園に営業に回った。私が物心ついたとき、我が家は祖母の会社と同じ敷地内にあり、祖母が日々、明るくはつらつと社長業を営む姿をずっと見てきた。

私の脳裏に焼き付いている、女性のあるべき姿の大きなイメージは、この祖母。
夫が戦死して女手一つで子育て・・・などという悲壮感は全く見せず、凜として、明るい。
おしゃれな女社長は、外見・身なりをとてもこだわる人。いつもあつらえの洋服を着ていた。
仕事のあとは、従業員の男性たちと一緒に麻雀、お酒。店屋もののお寿司を摘むのが
楽しみで、弟と一緒によく部屋をのぞきにいった。
たばこを片手に、「やった、ロンー!」なーんて、満面に笑みの、かっこいい人であった。

そして、母も祖母の会社の経理全般を担っていたため、女性が働いているのが当たり前、という環境で育った。母は毎朝、家族6人分のお弁当、朝食を用意し、会社に出勤し、夕方に戻り、夕食の支度をする。私たち兄弟3人は鍵っ子。私は家に帰っても母がいないのは平気だった。
たまに友達の家に遊びにいき、お母さんがいて、手作りのケーキや紅茶なんぞ出してくれるのを見たり、遠足などのイベントで母親が同伴してくるのを見ても、まったくうらやましいとは思わず、むしろ「うざーい!ここんち」と思っていた。仕事に忙しく、干渉されない自分の家の環境、母親の姿が好きだった。しかし、後から判明したが、兄や弟は私とは違ったらしく、家に母がいないのが寂しく、自分の子供にはこの思いはさせたくない、と、強く感じていたらしい!(この違いは男女の差なのかもしれない)

祖母と母の後ろ姿から、「女の人が働いているのは当たり前、むしろその方がかっこいい」、と思っていた私は、当然に、そういう女性像を目指すことになったんだと思う。
・・・と同時に、働きながら、家庭を切り盛りする女性の大変さも、ずっと感じてきた。
特に、うちは殿様体質の父であったため。

「女って、なんて損なんだろう!」・・・いつ見ても、働きづめの母親を見ながら、感じてしまっていた。
・・・あーんど
「うちのお父さんみたいな、男との人とは絶対に結婚したくない!」とも。
「自分はこんな何も家事を手伝わない、自分が一番えらいと思っているような、殿様みたいな男の人はイヤだ!女ばかりが損するのはお母さん世代でおしまい!」というのが、私の幼少期からの男性観のつよーい刷り込みになっていた。

私が30歳過ぎても、なかなか結婚しない(結婚できない)のを見て、母がたまにため息をつきながら言っていた。「私のせいかもしれないわねー」

いやー、そんなことはないよ・・・と母をかばいつつ、内心は、そうね。影響あるかもね、と思っていた。

ファザコンという言葉があるが、あれはお父さんが好きで好きで、お父さんみたいな男性が理想ということの意味が強いのだろうが、私のように、決して父の様な男性とは結婚したくないコンプレックスの意味もまた併せ持ってる気がする。

いずれにしても、自分の父、母、そしてその両親の関係性の中に、私の結婚観が作られていったのは間違いない。ただし、人生観としては、結婚して子供がいる家庭を持ちたい、とは思い続けていたのだから、両親や祖母からたくさんの愛情を受け、すくすくのびのびと育ててもらった家庭環境には、大いなる恵みを感じ、肯定感が強くあった。

祖母や母のように女性も自立して、仕事を持ち、そして、父親みたいな身勝手、殿様体質じゃない男性と結婚をしたい・・・そして、子供も欲しい。そんな結婚観、人生観が39歳まで続いていた。

仕事と家庭の両立、そんな価値観を理解してくれる理想的な男性。
それを探し求めているうちに、、、気がついたら39歳になっちゃったってことなんだろうか。

私の結婚問題を一番心配してくれていたのは、そのばりばり仕事人だった祖母。
札幌に帰省するたびに、「あんた、おつきあいしてる人はいないのかい?」と詰問される。
祖母の口癖は、
「結婚しないとだめ。いくら仕事を一生懸命しても、年をとって女が1人は寂しい」だった。
私が仕事の話をすると、それはそれで喜んでくれてはいたが、そのうち
「なんであんたは経営者でもないのに、そんなに仕事をするのかい?」と首を傾げていた。

たまに、見合い話の結果を聞かれ、
「いやー、なんか価値観が合わなくてね!」なーんて発言をすると、「男の人なんか、誰と結婚してもたいして変わらないよ。資産がある人としなさい」と言う。

そうかねえ。変わると思うけどな-。
資産を求められたのには笑った。
祖母にとってはそれは重要だったんだろうし。その意味も今となって分かる部分もある。

35歳ぐらいの時。まだ結婚しない私は、祖母から今まで以上に強く言われた。
「あんた、もう30過ぎて、年をとって、みったくなくなったら嫁のもらい手がなくなるよ!あんたが結婚しないと、私は死んでも死にきれない!」
2つ下の弟が先に結婚したこともあり、祖母は私の居ないところでも、よく独身の私のことを不憫に思っていたらしい。このままじゃだめだ。ナコは絶対に結婚させないと、と。

「そんなー。死んでも死に切れない方が、長生きできていいじゃなーい!」・・・なんて
また、軽く返事をしていたが、毎年毎年、会うたびに祖母に言われ続けてきたおかげもあり、
「やっぱ、そろそろ結婚しないと、ほんと、まずいなあ・・・」と、祖母や親孝行などと、悠長な理由じゃなく、焦りが出てきた。真剣モードになってきた。

大好きな、尊敬する祖母からの熱い期待は、私の婚活に火を付けてくれた。

2011年7月13日水曜日

40歳からの婚活(その1)・・・「会社と恋愛してるあたし?」

2008年9月19日。満40歳の誕生日。
あーついに、40代に突入。
友人からのお祝いのメッセージ、メールの数々が届く。
・・・嬉しい、ありがとう!ありがとう!いやいや、ほんとありがたい。

しかし、その中に肝心の意中の人からのメールはない。
・・・というか、つきあっている人からのメールはなかったということ。
彼氏無し、で、40歳の誕生日を迎えてしまった。

どういう心境だったかって、今から振り返るに、
やっぱり寂しいというか、「あーあ!」って感じだったと思う。

数年前から、仕事がらみで知り合った、運命鑑定学「未来学」の凰華(おうか)先生によると、
2008年は私にとって、華(はな)の年。まさに人生の真夏、大いに幸せが開く年だそうな。
もう残り3ヶ月と少ししかないじゃないか!

ここから、仕事にまみれた、猛烈営業マンの行動スタイルが婚活にも展開された。
目標設定をしっかり行った。
「2008年度中に結婚する!」(というか、結婚する人を見つける)
営業リストには可能性のありそうな人はゼロなのに。だいじょうーぶかねえ?

ところで、当然ながら、40歳になる以前にも婚活は意識していた。
30歳前半までは、母親が心配してせっせと見合いの話も持ってきてくれていた。
ネットでのお見合いサイトも含めて、10回以上のお見合いを経験した。
しかし、どれも、箸にも棒にもかからないって感じで(相手から見てもそうだったろう)
2時間の見合い時間中、あまりに話が合わないので、何度もトイレに行き、友達に
「もう話のネタが尽きちゃった、どうしよう!あーつらい!」などとメールしたりしていた。

または、持ち前の営業マインドが出過ぎてしまい、相手の会社の事業方針やらを
根掘り葉掘り聞き出し、「なんか、面接されているみたいですね・・・」と言われてしまったり。
(お、この会社は研究開発費がけっこうありそうだから、こんど営業に行こ!)と
見合いってことも忘れて、仕事の営業先の開拓ネタに使ったりしていた。
30代後半には、こんなお見合い話も途切れてきたが、
結婚相手がなかなか見つからないと嘆く私に、仕事先の心優しいお客さんが、
「うちの会社の独身男性で、いいのを紹介しますよ!」などといって、食事をセットしてくれたり、
40代近い男女だけのいわゆる合コンなるものにも、2回ぐらい行ってみたことはある。
しかし、すべて玉砕=成果なし、だった。

30歳の時の会社のマネジメント研修時に書いた人生設計書には
「34歳までには結婚し、子供を産みたい」とある。
そうだ。もちろん、結婚もしたいし、子供も欲しいと、ずっと思い続けてきたのだ。
私ばかりでなく、たいがい仕事ばかりやってるように思われている女性は、
周囲の人に、「あなたは結婚したいと思ってないでしょう」と言われてきたと思う。
でも、本当に結婚なんかしたくない!と思っている女性は少ない。
同年代の仕事にまみれている独身の女友達は、むしろ
「早く結婚して、子供がほしーい!」と考えている人が多かった。
そして、相手がいない、どこにいるの??・・・と愚痴を言い、傷をなめあう。

同年代の男性はたいがい結婚してしまっている、か、または女子が強すぎて
釣り合いがとれない場合も多いようだった。
だから、もう私たちに残されている相手は
「すごーく年上か、すごーく年下か、あとは外国人しかいないね!」などと身勝手に話していた。
実際、外国人で日本人と結婚したいと思っている人とのお見合い紹介所、みたいなものもあり、
今になってみると、あれは騙されたに近いので恥ずかしい過去だけど、
こっそり、それに入会したこともあり。いやはや。

もう何でもあり、になってきていた。

40歳誕生日から3ヶ月あまり2008年度の年末。
今年は”華の年”、という鑑定学を信じて、自分の運命の人はどこにいるのか?
今まで以上に真剣に婚活モードだった。

今になって振り返ると、営業マインド全開で、がつがつしていて、恥ずかしいけど、
「今年中に結婚相手を決めよう!」と期限をきったことは正解だった。
いつか、いい人が現れる時に結婚すればいい、、、と思っていたら、今の私はないだろう。
結局、結婚はタイミング、そして縁もの、なのだ。

それと、「どうして結婚できないんですかねーわたし」などと冗談半分で話していた時に、
会社の役員の大先輩に、仕事帰り?の飲み屋で言われた一言は忘れられない。
「イーダは、ぴあ(会社)と恋愛してるからなー。だから結婚できないんだよー。へへへー」

・・・って、言われてもねえ。
こんだけの時間を費やして、一生懸命仕事してるのは、会社を良くしたいからなんですけど。
毎日毎日、夜遅くまで仕事して、お客さんや仕事仲間と飲んで、仕事の話をして、
深夜に帰宅して、家では寝るだけ人生。
休日も残務処理に会社に出かける仕事まみれの人生。
仕事のし過ぎで、肩こりや腰痛がひどくなり、マッサージやらエステやらに高いお金を
出費しつづけてきた人生。

まあ、これじゃあ、結婚相手も近づかないわなあ。
近づきたくなくなるわなあ。

・・・これ、今だから思うことです。

その時は、全然。ひたむきに、仕事、会社のやるべきこと、やりたいことに向かい、
最優先で時間を割いていました。何の疑問も持たず・・・。

そういう仕事にがんばってきたアラフォー女性、たくさんいる。
独身でも、生き生きと仕事できていたら、それでいいという価値観もある。
でも、私は結婚して、子供を持ち、家庭を持ちたかった。
当たり前のそんな夢を持ち続けて、40歳独身のまま、2008年、いました。

2011年7月12日火曜日

7月12日(火) 昨日の妊婦検診(35週6日)から一日経ち・・・

今日から36週。ついに10ヶ月(臨月)に入った。

実家のサッポロに里帰りして、2週間が過ぎ、
涼しくてよく眠れるせいか、
母が作る料理の栄養価が高いおかげか、
放牧された馬のようにのんびりしていなさい、と父に諭されてるせいか、
赤ちゃんの発育が促進されているように思える。
毎日1時間ミニマム歩いているが、それでも体重はどんどん増える。

体重増加より気になっている逆子問題。
30週あたりで、急に赤ちゃんがひっくり返ってしまい、
逆立ち体勢をやめ、頭を上にして、早くも約1ヶ月。

「逆子 治し方」 を何度、検索したことか・・・。
その他、「逆子 原因」「逆子 帝王切開」「逆子 お灸」・・・。

いわゆる西洋医学的には、逆子の原因についてあまり言及されず、
東京の町田の病院でも、移転先の札幌の病院でも
「うーん、治るかどうかわからないけど、逆子体操がんばってね!」と
軽くいなされ、なんとかがんばって逆子を治そうね!という気運は感じられないんだなあ。

だから、東洋医学にすがるわけだ。
お腹、足下の冷え、お腹の張りが原因、とされる、足のツボ(三陰交&至陰)に
お灸やら棒灸を据えてもらい、毎晩の逆子体操&シムス体勢で寝る、、、をまじめに、
そして、祈りながら続けてきたんだが・・・。

子宮の形が奇形だったり、子宮筋腫がある場合にも逆子になりやすいとある。
でも、どうもすべて納得がいかないわけで、「臨月までにはきっと治る!」と信じていた。

昨日7月11日の検診。「では、赤ちゃん見ましょう」と言われ、
ベテランのA先生がエコーの前に、おへそのあたりを触った。
「うーん、こっちが頭のような感じですが・・・」と。

エコーを見ると、やっぱり、まん丸の頭がおへそにあった。
「うーん。やはり骨盤位(逆子のこと)のままですねー」

ああ、南無三。

「ここまで来ると、これ以降に治るってことはあまり期待できないですねえ。
もちろん100%ではないですがねえ」
「40歳以上の高齢妊婦さんは、逆子ではなくても、4割以上が帝王切開になってますので、
逆子の場合は、母子の安全を優先して、帝王切開にしましょう」

私はもう多くは語らないのだけれど。

つまり、「逆子でもどうしても下から産みたいんです!」とか
「逆子っていったいどういう理由でなるのですか?どうしたら治るのでしょか?」とかとか・・・
ここで詰め寄ったところで、このベテランA先生のおっしゃること(=方針)は変わらなく、
リスクのない方法で産むことを最優先に選択する、ということに行き着く。

だから、もう観念したのだ。
あーかなしい、ホントにホントに残念なのだ。
観念・・・って思ってしまうのは、もう理性ではなく、本能的な感情。

この感情がどうしてもわき起こってしまうことだけは、残しておきたい。
涙がこぼれる、ほどではないが、その後、助産師さんからの手術の説明やらも、
半ば放心状態で、言葉が耳に入らないのだった。

あー、今日はもう一人っきりでいたい。と思った。

家に戻り、結果を両親に話すのもいや。
安全なら帝王切開でも良いじゃないの?、、、とか言われるのが目に見えている。

前回6月末の検診にて、A先生から、逆子なら帝王切開になりますと言われたと報告した時、
元産婦人科医の父も、逆子経験者の母も驚いた。
母も第一子は逆子だけど普通に分娩できたわよと。
84歳の父の頃には、よほどの緊急性がない場合は帝王切開はしなかったらしい、が
今の時代は逆子=帝王切開で安全に出産させるのがメインストリームなんだって、と説明したら、
「昔より、帝王切開の技術もあがっているのだろう。むしろその方が安心かもしれない」と
納得した模様。

しかし、わたしは頭ではわかっているが、身体がしおれている。

しばし、休息タイム要・・・。

しかも、帝王切開の場合は、37週を過ぎたら、早いタイミングで手術を設定するので、
なんと7月最後の週にしましょう、と宣告された。

そんな早く?
もっと赤ちゃんをお腹に入れておきたい・・・!
そもそも、8月9日長崎原爆の日の予定だったのに・・・。
15日の終戦記念日でもいいね、世界の平和を守る子にしようなーんて言ってたんだが、
8月までは待てない、7月中じゃないとだめ、と言われてしまった。
37週まで育てば、むしろ母体に置いておくリスクの方が高くなる場合もあると。
破水したり、溺れて死んでしまう赤ちゃんもいると。
えー、そうなの???なるべくぎりぎりまでお母さんのお腹にいる方が自然じゃない?

いろいろなクエスチョンがありつつも、逆子の予定帝王切開は37週から38週にするのが
一番安全だと、説明された。

他の人が聞いたら、たいした重要なことに思われないだろうが、
やはり、なるべく自然に産みたいと、こだわっている自分がいる。

さてと。
1日経ち、今はもう気持ちの整理がついた。

昨晩、夫のイチロウと電話で話したら、
「赤ちゃん、いつにしようか、7月28日がいい?7月29日の方がいい?
占いの先生にも聞いてみたら?なーこはいつがいいの?
おれは7月31日に卓さんとゲイリーが遊びに来るから、その前なら
いいよ!
退院する8月最初の週末の飛行機、とってあるし、ちょうどいいね。」

なんてことないのだ。妙に軽い。
元気で安全に産めることが大事と以前から
逆子→帝王切開には否定的ではなかったイチロウ。
むしろ、早く赤ちゃんにあえるし、東京から駆けつける予定も経つし、
いいこともあるってことなんでしょう。

そんな明るいイチロウの声を聞いていたら、
赤ちゃんも、早く出てきたいのかな、早く3人で一緒に暮らしたいのかなと
そんな風にも思えてきた。

それで、涙が出るような、暗澹たる気持ちが、少しずつ薄らいできた。

最後に。気持ちの整理に一役かったもの。
ネット検索・・・「吉村医院 危険」

わたしのこだわりの源になっていたモノは、
私が妊娠する前から、弟に薦められて読んでいた、自然分娩で有名な、かの
愛知の吉村正先生の「お産って、自然じゃなくっちゃ」
人間が赤ちゃんを産むという行為は太古の昔から引き継がれてきたもの。
医学の介入なく、お母さんと赤ちゃんの産む力をもとに、自然に産むことがいかに
大事であるか、いかに自然に産んだお母さんと赤ちゃんは美しく尊いものか、
自然に産む哲学を語っている先生。

自然分娩のすばらしさを、この先生の本やビデオで脳味噌に注入されていた。
40歳過ぎの初産でなければ、助産院で産みたかったなと思っていた。

しかし、ネット検索中、この吉村医院の超自然分娩思想のもと、
赤ちゃんの命を落としているお母さんの体験談や
出産がうまく進まず、ぎりぎりで大病院に搬送され、帝王切開で出産を担当した産科医の緊張の手記など、先生の自然分娩の著書のすばらしい体験談には出てこない、裏側の事実がいくつも掲載されていたのを発見。

「自然に助からない命もある、それはしかたがない、自然の摂理だ」という吉村哲学。
その哲学をとるか、私の主治医のA先生の方針の「リスクのない安全な方法があるならば、そちらを選択して、母子ともに守る」をとるか。
わたしは、今の先生を選んだし、それで良かった、と、腑に落ちた。
イチロウはもちろんのこと、両親も同じ考えだ。

このネット検索数時間にて、ずっと自然分娩にこだわっていた、気持ちの整理ができた

そしてそして。おまけ。
逆子問題について、心のよりどころを見つけた。
同じく自然分娩を提唱している、東京・杉並の参院「明日香医院」の大野明子先生の著書
「分娩台よ さようなら あたり前に産んで あたり前に育てたい」。
やはり逆子に悩み、検索していたら、出てきた本。つい数日前に購入。

逆子について大野先生論を説明する章があり。
ここでは、逆子は徹底的に治すので、ほとんど逆子出産はない、という(なんと!治せるの?)
早期に見つけて、逆立ちをしなさいと指導すると言う。3日間逆立ちすればたいてい治ると。
それでもだめな場合は、エコーを見ながら、外回転術で治すと。
そして、逆子問題に納得感をくれた一言

「逆子のお母さんは安産」

なんと??
逆子になるお母さんの体型の特徴として、骨盤が広いことがあげられるといい、
だから、大きなお尻が骨盤にはまる=収容できる=逆子になる。
だから、逆子が治ったお母さんのその後は、安産なことが多いと言うのです。

この大野先生に診察してもらえていたら、違ったかもしれないという、悔しさと
私の子宮が奇形だから逆子なのではなく、骨盤が広いから逆子なのかもなという嬉しさ(?)
両方の気持ちが入り交じり、、、、涙なくして読めませんでした。

逆子が治ってたら、もしかしたら安産だったかもしれないけど、
でも、安全を優先して、元気な赤ちゃんに出会うことを受け入れよう。
この年になって、ひょっこり赤ちゃんを授かったことだけでも、十分に幸せ。
元気な赤ちゃんを胸に抱くことができれば、それ以上に望むことなんか、ない。

1日経ちました。
逆子問題は、自分のこだわりとの決別でもあり、
これも意味がある通過点だったように思えている。

さあて、あと16日を大事に過ごそう!

<自宅にて>