2011年7月15日金曜日

40歳からの婚活(その2)・・・39歳までの総括をする

結婚するまでの39年間の総括をしてみると、
「なぜ40歳まで結婚できなかったのか?」が
浮き彫りになってくる。

特に、幼少期~思春期までの生い立ち、家庭環境と、そこで注入された価値観や
自分の受け止め方がどうたったか?を振り返るのは非常に重要。
年をとるほどに、恐ろしいほどにその影響が大きいことに気づくのだ。

家族は両親と兄・弟の3人兄弟。そして母方の祖母。
娘にとっての、男性のファーストインプレッションは、父親に多くを与えられる。
私の父は勤務医(内科)。実家は北海道日高のサラブレットを経営する牧場で、10人兄弟の7番目。幼少期からお手伝いさんがたくさんいたという、比較的裕福な田舎のお坊ちゃんとして育つ。兄弟の中でも格別におっとりしていたらしく、「天皇陛下」というあだ名だったらしい(笑)
独自の価値観を持ち、ユニークさ、変わった人度合いでいうと、かなりハイレベル。
父の逸話を話すと、友人に喜ばれることが多い。

逸話その1・・・
夏になると、家でスカートをはいていた。理由は、暑いから(南の国では男性も布を巻く)
それと、女性が長生きするのは、衣服を締め付けないことに起因しているのでは?と考え、実践したくなったらしい。
小学生の時、友達と家で遊んでいたら、真っ赤なタオル地のスカートをはいたまま(しかも、ノーパン)、「はい!写真をとりますよー」といって部屋にカメラを構えて入ってきた。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。でも、そのスタイルを決してやめない人だった。

社会の一般常識を気にせず、独自の価値観を持つ人。
クラシック音楽鑑賞、美術鑑賞、バレエ鑑賞など、文化芸術については並々ならぬ趣味を持ち、
そして、無類の読書好き、カメラ好き、ワイン好き・・・。”品の良いオタク”

そして、3人の子供達をサラブレッド(馬)のように育てるべく、毎日夕方には帰宅し、
我々を公園に連れて行き、森林散歩、野球、かけっこ・・・。
とにかく、自然の中で徹底的に身体を鍛えさせられた。
夏は海。子供は裸でいい、と言い、水着も着せてもらえず、父自ら裸で海辺で走り幅飛び、すもう・・・。
冬はスキー。足腰を鍛えるため、リフトには乗せてもらえない・・・。

このようなユニークさに加えて、古い日本の男子然、としているところもあり、いわゆる亭主関白な側面も大きかった。家事はいっさいやらない。札幌は雪国なので、冬になると毎日の雪かきが重労働なのだが、うちの父が雪かきをしたのを見たことがない。「手をけがすると仕事に差し支えますので・・・」といい、母や祖母、私たちが汗だくで雪かきをするのをじっと眺めている、という人。

母はそんな父と高校卒業後すぐ18歳の若さで結婚をした。
父は33歳で、15歳も年が離れていたが、父曰く、「今まで会った人の中で、一番話があうので決めた」と言っており、若くて美しい母だったこともあり、また浮世離れした、お殿様体質の父には、何かがぴたっときてしまったのだろう。

母は北海道帯広で生まれた。祖父が昭和19年、太平洋戦争のためフィリピン沖で戦死。当時3歳の母はほとんど記憶がないらしく、祖母と弟の3人で祖父の実家の帯広にて戦後を迎えたという。
28歳にして未亡人になった祖母は、2人の子供達を育てるため、事業を興した。幼稚園向けの教材キンダーブックなどを販売する会社「札幌保育館(フレーベル館)」。
当初は帯広で開始し、その後札幌に事務所を移転。祖父の父親(舅)にお金をかり、豊平区にわずかな土地を買い、会社と小さな自宅を建てた。少ない従業員とともに、北海道中の幼稚園、保育園に営業に回った。私が物心ついたとき、我が家は祖母の会社と同じ敷地内にあり、祖母が日々、明るくはつらつと社長業を営む姿をずっと見てきた。

私の脳裏に焼き付いている、女性のあるべき姿の大きなイメージは、この祖母。
夫が戦死して女手一つで子育て・・・などという悲壮感は全く見せず、凜として、明るい。
おしゃれな女社長は、外見・身なりをとてもこだわる人。いつもあつらえの洋服を着ていた。
仕事のあとは、従業員の男性たちと一緒に麻雀、お酒。店屋もののお寿司を摘むのが
楽しみで、弟と一緒によく部屋をのぞきにいった。
たばこを片手に、「やった、ロンー!」なーんて、満面に笑みの、かっこいい人であった。

そして、母も祖母の会社の経理全般を担っていたため、女性が働いているのが当たり前、という環境で育った。母は毎朝、家族6人分のお弁当、朝食を用意し、会社に出勤し、夕方に戻り、夕食の支度をする。私たち兄弟3人は鍵っ子。私は家に帰っても母がいないのは平気だった。
たまに友達の家に遊びにいき、お母さんがいて、手作りのケーキや紅茶なんぞ出してくれるのを見たり、遠足などのイベントで母親が同伴してくるのを見ても、まったくうらやましいとは思わず、むしろ「うざーい!ここんち」と思っていた。仕事に忙しく、干渉されない自分の家の環境、母親の姿が好きだった。しかし、後から判明したが、兄や弟は私とは違ったらしく、家に母がいないのが寂しく、自分の子供にはこの思いはさせたくない、と、強く感じていたらしい!(この違いは男女の差なのかもしれない)

祖母と母の後ろ姿から、「女の人が働いているのは当たり前、むしろその方がかっこいい」、と思っていた私は、当然に、そういう女性像を目指すことになったんだと思う。
・・・と同時に、働きながら、家庭を切り盛りする女性の大変さも、ずっと感じてきた。
特に、うちは殿様体質の父であったため。

「女って、なんて損なんだろう!」・・・いつ見ても、働きづめの母親を見ながら、感じてしまっていた。
・・・あーんど
「うちのお父さんみたいな、男との人とは絶対に結婚したくない!」とも。
「自分はこんな何も家事を手伝わない、自分が一番えらいと思っているような、殿様みたいな男の人はイヤだ!女ばかりが損するのはお母さん世代でおしまい!」というのが、私の幼少期からの男性観のつよーい刷り込みになっていた。

私が30歳過ぎても、なかなか結婚しない(結婚できない)のを見て、母がたまにため息をつきながら言っていた。「私のせいかもしれないわねー」

いやー、そんなことはないよ・・・と母をかばいつつ、内心は、そうね。影響あるかもね、と思っていた。

ファザコンという言葉があるが、あれはお父さんが好きで好きで、お父さんみたいな男性が理想ということの意味が強いのだろうが、私のように、決して父の様な男性とは結婚したくないコンプレックスの意味もまた併せ持ってる気がする。

いずれにしても、自分の父、母、そしてその両親の関係性の中に、私の結婚観が作られていったのは間違いない。ただし、人生観としては、結婚して子供がいる家庭を持ちたい、とは思い続けていたのだから、両親や祖母からたくさんの愛情を受け、すくすくのびのびと育ててもらった家庭環境には、大いなる恵みを感じ、肯定感が強くあった。

祖母や母のように女性も自立して、仕事を持ち、そして、父親みたいな身勝手、殿様体質じゃない男性と結婚をしたい・・・そして、子供も欲しい。そんな結婚観、人生観が39歳まで続いていた。

仕事と家庭の両立、そんな価値観を理解してくれる理想的な男性。
それを探し求めているうちに、、、気がついたら39歳になっちゃったってことなんだろうか。

私の結婚問題を一番心配してくれていたのは、そのばりばり仕事人だった祖母。
札幌に帰省するたびに、「あんた、おつきあいしてる人はいないのかい?」と詰問される。
祖母の口癖は、
「結婚しないとだめ。いくら仕事を一生懸命しても、年をとって女が1人は寂しい」だった。
私が仕事の話をすると、それはそれで喜んでくれてはいたが、そのうち
「なんであんたは経営者でもないのに、そんなに仕事をするのかい?」と首を傾げていた。

たまに、見合い話の結果を聞かれ、
「いやー、なんか価値観が合わなくてね!」なーんて発言をすると、「男の人なんか、誰と結婚してもたいして変わらないよ。資産がある人としなさい」と言う。

そうかねえ。変わると思うけどな-。
資産を求められたのには笑った。
祖母にとってはそれは重要だったんだろうし。その意味も今となって分かる部分もある。

35歳ぐらいの時。まだ結婚しない私は、祖母から今まで以上に強く言われた。
「あんた、もう30過ぎて、年をとって、みったくなくなったら嫁のもらい手がなくなるよ!あんたが結婚しないと、私は死んでも死にきれない!」
2つ下の弟が先に結婚したこともあり、祖母は私の居ないところでも、よく独身の私のことを不憫に思っていたらしい。このままじゃだめだ。ナコは絶対に結婚させないと、と。

「そんなー。死んでも死に切れない方が、長生きできていいじゃなーい!」・・・なんて
また、軽く返事をしていたが、毎年毎年、会うたびに祖母に言われ続けてきたおかげもあり、
「やっぱ、そろそろ結婚しないと、ほんと、まずいなあ・・・」と、祖母や親孝行などと、悠長な理由じゃなく、焦りが出てきた。真剣モードになってきた。

大好きな、尊敬する祖母からの熱い期待は、私の婚活に火を付けてくれた。

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