2011年7月26日火曜日

42歳からの妊娠・出産・・・(妊娠中期) 3.11大地震、そして祖母の死


<伊勢外宮にて> 

安定期とはよく言ったもの。
2/22、16週(5ヶ月)に入ると、つわりも治まり、気分すっきり。
下腹部が少しずつ膨らんできた。
体重はまだそれほど増えていないものの、胎盤が安定してきたので、
赤ちゃんは急カーブで成長する、と言う。
毎朝、お腹に手を当てて、夫と一緒に赤ちゃんに話しかけた。

休暇に入ると同時に、我が家のすぐ裏、野津田公園の緑の中での散歩が日課となり、
身体も精神状態もかなり健やかになった。
自分が心地よいと思える場所に引っ越しができたことも、
赤ちゃんを授かることができた、一つの大きな要因だと思える。
実は昨年5月、最初に妊娠したとき。都会のど真ん中からの引っ越しを決めた。
大好きな「風の谷幼稚園」に子供を通わせたいと考え、
幼稚園のある川崎市栗平付近に新居を探し、町田のはずれに絶好の中古物件に出会う。
結果、流産してしまったものの、あの時の赤ちゃんが、この田舎の自然に
導いてくれたんだ、と思う。

3月に入り、ますますお腹が膨らんできた。
まだ胎動は確認できないけれど、むくむくと赤ちゃんが成長してるのを感じる。
安定期のうちに行っておきたい場所、会っておきたい人リストを作った。
札幌の祖母、伊豆大島の叔父・叔母、伊勢神宮へのお参り・・・などなど。

まずは、近場。伊豆にいこうと思いつき、十数年来、毎夏のすもぐりに
通い続けた河津に早咲きの桜を見に、3/8、9と1泊2日の小旅行。
馴染みの干ものや「かねた水産」のおじちゃん、おばちゃんとの再会。
「元気な赤ちゃんを生んでくれよー」と、どっさりと美味しいミカンのお土産をくれた。

こんな穏やかな日々が急転したのが、3/11(金)
町田の自宅1階リビングで、1人のんびりしていた午後15時少し前、あの大地震がきた。
大きな揺れと同時に、地域一帯は停電。余震が何度も来て、ご近所の奥さま方が一斉に家から飛び出てきた。みんな一同にこんな大きな地震は生まれてと、恐がって身を寄せ合った。
震源地が宮城という情報以外、詳しい情報が分からぬまま、慌てて夫と一緒に乾電池を買いに
車でショッピングセンターに向かった。町中の信号が消え、道路は大渋滞。大混乱。
ようやくガソリンを補充し、3時間以上かけて、隣町の夫の実家に避難。ここは停電を免れていた。
深夜のテレビ報道で、予想以上の大惨事を初めて目の当たりにした。
震源地程近い、気仙沼の町の大火災の様子が放映されていた。
遠く離れていても、身が震える。恐ろしい光景だった。

その後、福島第一原発の問題が勃発。テレビ報道、ネット上は放射能汚染関連の、真偽の程が全くわからない情報に振り回され始めた。そして余震が来る度にベット脇に備えた運動靴を履き、すぐさま避難できるように身構える。非常用の水・食料を詰めたリュックサックを玄関前に常備した。

そして、数日後。水素爆発が起きたすぐ後。夫の従姉妹の夕美子さんから電話が入る。
「あの水素爆発で、これから大量の放射能が東京にも降りかかるわよ。私たちは長崎に逃げることにしたの。あなたたちはどうするの?暢子さんは妊婦なんだから、絶対に東京にいちゃだめ。実家の札幌に帰るか、九州あたりに逃げなさい」

夫は夕美子さんの断固とした口調に驚きつつも、電話を切るとすぐさま
「どうしようか。僕たちも逃げようか。どうしたい?」と私に問うてきた。
原発事故後、ある程度の恐ろしさを感じていたが、水素爆発後は自分でも驚くほどに動揺した。また、その夕美子さんからの電話が、その不安な気持ちに拍車をかけてくれた。
妊娠していなければ、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。どちらかというと、被災地にいち早く乗り込み、救援活動をしたい!などと勇ましい気持ちがわき上がるたちだ。
でも、お腹には小さな赤ちゃんがいる。余震や停電の続く状況でも不安なのに、さらに恐ろしい放射能の雨が降り注ぐことになるなんて・・・。テレビ報道がいくら安全と言おうと、全く信用ならなかった。

守るべきものができた私は、直感的に「ここには居たくない。なにか気持が悪い」と感じた。
そして、夫に、「すぐに逃げたい。東京には居たくない」と言った。
2時間後には、車で町田の家を出ていた。とにかく、関東を離れ、西へ西へと、車を走らせた。

3/15から約10日間。三重四日市から、伊勢神宮、熊野神社、高野山と、西国巡礼の旅のごとく、
大地震と原発事故が鎮まるのを祈りつつ、小さな命を守るための旅を続けた。
結果、この間に一時的に関東から離れたことで、かなり平静な心に戻れた。
そこまでしなくても、、、という周囲の声も無視して、飛び出てきて本当に良かったと思った。
夫が、妊婦が精神的に不安定になるのが一番良くない、とすぐさま判断してくれたのも嬉しかった。
そして、今になって、この時期、かなりの放射線量が関東全域にも降り注いでいたことが分かる。
自分たちは自衛できた。英断だった、と心から思う。
自分たちで自らの身を守るしかない。
信じるすべがない。
この信じがたい程、愚かな状況は今現在もまだ続いているが・・・。

そして、今度は西国巡礼の旅の後、まもなくのある朝。実家の母が慌てた声で電話をしてきた。
「ムッターの心臓が止まってしまった」と。
祖母は40歳過ぎ、若くして孫を持ったことから、ドイツ語で母親の意の”ムッター”と呼ばれていた。
3/27(日)朝。祖母はついに入院先の病院で息をひきとった。

私の結婚を誰よりも心配し、そして40歳で結婚できたことを誰よりも喜んでくれた祖母。
2009年2月末。夫のイチロウと一緒に札幌に結婚の挨拶に帰ったとき、
認知症でまだらぼけの頭だった祖母は、その時だけは、意識がはっきり戻り、
私とイチロウの顔をじーっと眺め、嬉しそうに言ってくれた。
「あんたたちは、似てるね。この人はいい顔してるね。
ナコは良い人に巡り会ったね。運が良かったね」と。

そして、「仲良くしなさいよ。優しくするんだよ」と言い、
「本当によかった。ああ嬉しい、嬉しい」と、涙を流して喜んでくれた。

最愛の第二の母のような存在の祖母に、ようやく結婚の報告ができた。
私が結婚するまでは、死んでも死にきれない!と言い続けてきた祖母。
私のお腹に赤ちゃんが宿っていることも、半ば理解してくれていたと思う。
ようやく、戦争で死に別れた祖父とも天国で再会できているだろう、と、
私も、母も叔父も、親族みんなで、祖母の91歳の大往生を暖かい気持ちで見送った。

祖母の命を引き継ぐ、新しい命が私のお腹にいる赤ちゃんなのかもしれない。
祖母の亡骸が骨になってしまった後は、不思議と、すぐ側に、いつも傍らに
祖母がいてくれている気がして、心強くなった。
「ムッターが赤ちゃんを守ってくれる」

祖母の強い魂が、3/11大地震後から長く不安に駆られていた私を支えてくれる気がした。

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